忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

谷 忠澄

〇 谷 忠兵衛 忠澄(たに ちゅうべえ ただずみ) 〇 1534~1600 忠澄は土佐国の長宗我部家臣で、元は土佐神社(高知県高知市一宮)の神主であったが、元親から信頼されて、岡豊城へ迎えられて家老職に就きました。 1584年豊臣秀吉の四国征伐が始まります。当…

久万兵庫

〇 【久万兵庫(くまひょうご)】 〇 生没年不詳 兵庫は土佐国「長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)」の家臣です。父は「久万俊宗(くまとしむね)」といいます。(一説では弟であるとも言われています。)兵庫は通称です。名前は「俊政(としまさ)」に…

長宗我部阿古

〇 長宗我部 阿古(ちょうそかべ あこ)姫 〇 生年不詳~1653 阿古姫は「長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)」の娘として生まれました。長男「信親(のぶちか)」から数えて7人目の子供で、「盛親(もりちか)」の妹になります。かつての宿敵であった…

【楠と八幡大菩薩】

天文13年(1544年)如月の子の刻(0時~2時頃)岡豊城中にある楠の巨木が突如轟音と共に倒れた。この楠周囲は一丈(約3m)高さは十丈を越える大きさであった。 岡豊城主長宗我部信濃守(国親)はさっそく城下にいた池澤と名乗る天文に明るい卜者よ呼び…

【弟よりの刺客】ー津野親忠ー

1600年(慶長5年)関ヶ原での敗北から土佐に戻った長宗我部盛親は、井伊直政よりの助言もあり、家臣たちを集めて大坂にて内府(徳川家康)に謝罪すべく上坂について相談した。 「成り行きとはいえ、この度の事は致し方ない事である。今は一刻も早く大坂…

【長宗我部盛親列伝 -20-】

盛親の子供たちの処遇だが、長男盛恒(もりつね)は父と共に大坂の陣に参戦し、最期は父盛親と共に斬首された。盛恒の息子盛胤(盛親の孫)もまた、六条河原にて父、祖父と共に斬首された。 ※この盛恒、記録が乏しいが大坂の陣時点での年齢を推測してみよう…

【長宗我部盛親列伝 -19-】

慶長20年(1615年)5月7日若江・八尾の戦いの翌日に行われた天王寺・岡山の戦いは大坂夏の陣においての最終決戦となった。 しかし、先日の藤堂勢との戦にて再起不能状態であった長宗我部勢は参戦する事が出来なかった。 勝敗は豊臣軍の大敗北に終わ…

【長宗我部盛親列伝 -18-】

藤堂勢の先鋒には藤堂高刑(とうどうたかのり)がいた。高刑は先の関ケ原において大谷刑部の首を埋める刑部の家臣湯浅五助を発見し、見事打ち取った武将である。高刑と行動を共にしていたのが桑名弥次兵衛吉成である。弥次兵衛は元長宗我部の家臣で関ケ原後…

【長宗我部盛親列伝 -17-】

大坂夏の陣において、盛親は大坂城東側の河内方面から向かってくる藤堂高虎や井伊直孝など徳川勢55000の抑えとして出陣した。 先方は木村重成6000、その後すぐに長宗我部盛親と増田盛次5300が出陣した。 木村重成は今福方面を視察して幕府軍が…

【長宗我部盛親列伝 -16-】

慶長20年(1615年)3月には、大坂にて和議に納得できない浪人たちが暴発し、狼藉を働いたり、埋められた堀や壊された城壁を徳川家に無断で勝手に修復し始める等の事象が発生しだした。幕府はは豊臣家に対して浪人の解雇、もしくは豊臣家の移封(いほ…

【長宗我部盛親列伝 -15-】

大阪冬の陣においては、谷町口(大阪城の南)に佐野道司、栗谷元種、大谷吉治らと共に布陣した。近くに有名な真田丸もあった。これは真田源次郎のみで徳川軍を釘付けにし、大損害を与えたと思われがちだが、実際には真田丸の半分ほどは盛親の手勢が着手して…

【長宗我部盛親列伝 -14-】

大坂では秀頼から手厚く出迎えられ、盛親は浪人衆の中でも「五人衆」と呼ばれ優遇される。五人衆は以下の五人 ・長宗我部盛親・毛利勝永・真田源次郎信繁(真田幸村)・明石掃部(明石全登)・後藤又兵衛基次 大坂には盛親以外にもどんどん浪人たちが押し寄…

【長宗我部盛親列伝 -13-】

このまま寺子屋の先生として細々と一生涯を終えると思われていた盛親に再び戦場への誘いがやってきた。慶長20年(1615年)豊臣家の使者が盛親を尋ねた。 徳川家康も当初は子供であった豊臣秀頼に対して一種の愛情を持って接してきたが、老いていくに従…

【長宗我部盛親列伝 -12-】

関ヶ原の戦後、日本は一気に豊臣色から徳川色に塗り替えられていった。その様子を盛親はどのような気持ちで眺めていたのか・・・ たらればの話だが、もし、盛親が東軍として土佐に引きこもり西軍と戦ったなら、土佐一国は安堵され土佐長宗我部藩が誕生してい…

【長宗我部盛親列伝 -11-】

結局戦局は東軍圧勝で終結した。長宗我部隊は敗走し、なんとか土佐へと逃げ帰った。 肝心な大戦で全く戦をしなかった長宗我部家だったが、伏見等では中途半端に頑張ったので徳川からは完全に敵とみなされた。毛利と違い裏工作も何も出来なかった示ので致し方…

【長宗我部盛親列伝 -10-】

西軍総大将は名目上毛利輝元となっていたが、輝元はあくまでも秀頼の代理。肝心な秀頼は若干7歳、母の淀殿も当然秀頼を戦場に出すことを許可しない。 実際に東軍の本軍として毛利の部隊を率いたのは21歳の若武者毛利秀元だった。この毛利と徳川の間でも三…

【長宗我部盛親列伝 -09-】

1600年(慶長5年)時点での四国は ○ 土佐には長宗我部家 ○ 阿波は蜂須賀家 ○ 讃岐は生駒家が勢力としては大きく、 ○ 伊予には加藤家、藤堂家、小川家がいた。 このうち、蜂須賀、生駒、加藤、藤堂ら隣接する大名は東軍だったが、すべて土佐よりも石高が…

【長宗我部盛親列伝 -08-】

1600年(慶長5年)ついに日本は東西に分かれて関ケ原で激突する。 実質西の豊臣、東の徳川といった形にはなったが、豊臣家は家臣と家臣との戦としての立ち位置を取った。 徳川家康も表向きは豊臣家に恭順の意を示しており、全ては秀頼様の為にという大…

【長宗我部盛親列伝 -07-】

徳川家康の野望が見え隠れし始めると、制止しようとする石田三成ら官僚との争いが激化し始めた。 元親はこの時期京都伏見の屋敷に滞在。徳川家康が屋敷に訪問したという記録もある。 1599年(慶長4年)、豊臣家への人質であった津野孫次郎親忠が土佐に…

【長宗我部盛親列伝 -06-】

1597年(慶長2年)には分国法として「長宗我部元親百箇条」を親子で制定した。1598年(慶長3年)に、天下の覇者豊臣秀吉が他界した。 ワンマン経営者の秀吉がいなくなった事によって、日本は次の権力者を決める争いへと突き進むことになる。 秀吉…

【長宗我部盛親列伝 -05-】

盛親はその後父と共に秀吉からの命による戦に参陣して様々な経験を積んでいった。元親もまた自分の全てを後継者に教授してた。 朝鮮の役からは事実上盛親に政治を任せたが、家督は譲らずに二頭政治で土佐を束ねていく。 ここで大名の格付けを表す「官位」の…

【長宗我部盛親列伝 -04-】

元親の判断は四男千熊丸と信親の娘を結婚させて後継者として決定した。 元親の鶴の一声は絶対であったが、当然五郎次郎を推していた吉良親実や比江山親興は元親に直言する。家臣の話を重視していたかつての面影はこの時の元親には無く、邪魔者に対して切腹を…

【長宗我部盛親列伝 -03-】

本来ならば冷静沈着な元親も自慢の息子の死を受け入れられず判断出来ない、その事もあり家臣の亀裂は益々肥大化していった。 この時(1587年)千熊丸は12歳、歴史書によると短気で傲慢(ようするに我がまま)な性格であり、当主としての器量を持ち合わ…

【長宗我部盛親列伝 -02-】

1585年(天正13年)悲願であった四国統一を成し遂げた直後に天下の実権を事実上手に入れた羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって僅か数ヵ月で征伐されてしまった。元親は秀吉に降伏し、土佐一国のみの大名となった。この時千熊丸は8歳、幼心に父の敗北はショ…

【長宗我部盛親列伝 -01-】

「土佐の雄」長宗我部元親の四男として1575年(天正3年)に生を受けた千熊丸(後の長宗我部盛親)。この年天正3年は長篠の戦が起こり、父は土佐中村にて一条家を滅ぼして土佐を平定した。(四万十川の戦い) 土佐平定の夢を叶えた元親にとって、千熊丸…

「般若心経~」22

「般若心経」について少しずつ私が勉強したことをお話しています。 今回は・・・ 「無智亦無得」( むー ちぃー やく むー とく) の個所です。 「無智」とは「悟りは無い」という意味になります。※智という漢字は仏教では悟りになり、知とは別で考えましょ…

「般若心経~」21

「般若心経」について少しずつ私が勉強したことをお話しています。 今回は・・・ 「無苦集滅道」( むー くー しゅー めつ どうー) の個所です。 相変わらずの「無」シリーズですが張り切っていきましょう!! この「苦集滅道」ですが、仏教においての心理…

「般若心経~」20

「般若心経」について少しずつ私が勉強したことをお話しています。 今回は・・・ 前回ご説明しました、無明と老死って何ぞやについてお話してみます。 この二つの言葉は「十二因縁(じゅうにいんねん)」と言って 仏教で考える人の苦しみの原因を絶ち、苦し…

【盛親夫人と國照】

長宗我部盛親の妻は盛親の兄弥三郎信親の娘であった。元和元年(1615年)5月、長宗我部盛親及び、その息子らは幕府への反逆罪により京都六条河原にて斬首の刑に処された。夫人は夫が徳川に捕縛された事を伝え聞くと、心を痛め京都まで上る旅路にでたが…

「般若心経~」19

「般若心経」について少しずつ私が勉強したことをお話しています。 今回は・・・ 「乃至無老死」( ない しぃー むー ろー しー )「亦無老死尽」( やく むー ろー しー じん ) 「乃至(ないし)」は「何かから何かまで」という意味です。 何かの部分にあ…