【長宗我部盛親列伝 -08-】
1600年(慶長5年)ついに日本は東西に分かれて関ケ原で激突する。
実質西の豊臣、東の徳川といった形にはなったが、豊臣家は家臣と家臣との戦としての立ち位置を取った。
徳川家康も表向きは豊臣家に恭順の意を示しており、全ては秀頼様の為にという大義を持っていた。
話が複雑になるが、名目上は石田(豊臣)VS徳川(豊臣)となる。
秀頼と家康が争ったわけでは決してなく、東西共に豊臣秀頼様の為に戦ったと大義名分を出している。
さらに細かく説明すると当時石田三成は隠居の身だったので力的には徳川家康と戦えるはずもない。頼りにしていた大納言前田利家も病の為他界していた。
よって西軍の総大将(立場としては豊臣秀頼の補佐)は毛利輝元であった、しかしこの毛利は、あくまでも家康が奥州征伐で大阪を留守にするので、その代わりに大坂に入城したのだと主張している。
さて、五大老の行動だが、
徳川家康に味方したのは前田利長(まえだとしなが)前田利家の息子
毛利輝元は大阪城を占拠した形になったが、中立の立場と主張している。
※毛利は西軍として関ヶ原には参陣したが、裏で徳川家と交渉していた
各地の大名たちが西、東に分かれる中、土佐の盛親は東西どちらに付くか家中で協議を重ねていた。
結果は東軍、つまり徳川家康に味方する事に決まり密書を送るが、地理的にどうしても近畿(西軍が抑えている領地)を通る必要があり、
徳川方に意思を伝えることが出来なかった。
なかなかお粗末な話だが結局長宗我部家は「西軍」に味方することとなってしまった。