忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

【長宗我部盛親列伝 -01-】

 「土佐の雄」長宗我部元親の四男として1575年(天正3年)に生を受けた千熊丸
(後の長宗我部盛親)。この年天正3年は長篠の戦が起こり、父は土佐中村にて一条家を滅ぼして土佐を平定した。(四万十川の戦い)

土佐平定の夢を叶えた元親にとって、千熊丸の誕生は二重の喜びであり、元親は千熊丸をことのほか溺愛した。

 この時元親には千熊丸を含めて四人の息子がいた。(最終的には6人)
嫡男の弥三郎信親は1565年(永禄8年)に生まれて千熊丸とは10離れ。
千熊丸が生まれた年に弥三郎は織田信長を烏帽子親とし、信長の「信」の字を与えられ元服した。
次男は五郎次郎親和、1567年(永禄10年)に生まれ、千熊丸とは8歳離れている。
三男は孫次郎親忠、1572年(元亀3年)に生まれ、千熊丸とは3歳離れている。

父である元親は四国統一に向けて戦に追われる日々、幼い千熊丸は兄達と共に父の帰りを待ちながら岡豊城下で無事に成長していった。

一番年の近い三男孫次郎は1571年(元亀2年)元親に破れ(仁淀川の戦い)降伏した津野勝興(つのかつおき)の養子として津野家を継ぎ姫野々(高岡郡津野町姫野々)に移ったので、ほとんど千熊丸とは交流が無かった。

 五郎次郎は1581年(天正9年)千熊丸が6歳の時に西讃岐守護代の香川信景との和睦条件として信景の養子となった。この「五郎次郎」という名前は香川宗家の通字なので、養子に出てから五郎次郎と名乗ったと思われる。
【つまり、それまでの五郎次郎の幼名(通称)は私の勉強不足もあり不明】

 

 嫡男(長子)である弥三郎信親は長宗我部の正統な後継者、このまま何もなければ千熊丸が長宗我部当主となる事も無く、他の兄達と同様どこかの家に養子に出される運命であっただろうが、皮肉なことに歴史はそうはならなかった。