【長宗我部盛親列伝 -09-】
1600年(慶長5年)時点での四国は
○ 土佐には長宗我部家
○ 阿波は蜂須賀家
○ 讃岐は生駒家が勢力としては大きく、
○ 伊予には加藤家、藤堂家、小川家がいた。
このうち、蜂須賀、生駒、加藤、藤堂ら隣接する大名は東軍だったが、
すべて土佐よりも石高が低く、大した脅威ではなかった。
それよりも盛親にとっては西軍である毛利や宇喜多を警戒し、已む無く西軍となった。
結果論だがあっけなく西軍が敗北する等盛親等当時の武将には分かるはずもない。
戦が長引けば当然近畿に近い土佐は西軍の標的にされる可能性が高い。
それではなぜ当初盛親は東軍を選択したかだが、様々な予測が成り立つ。
父元親時代から親交の深かった藤堂家や井伊家等が東軍であった為や、隣接するほとんどの大名は東軍だったから等当時の情勢や人間関係からの判断であったのではないだろうか。
盛親は約6600の兵力で大坂に参陣する。結構な兵力で参加してしまった盛親は西軍でも主力として迎えらた。
関ヶ原に参陣した西軍の主な大名と兵力としては
石田三成 6000名
宇喜多秀家 15000名
毛利秀元 24000名
小早川秀秋 8000名
小西行長 5000名
島津義弘 3000名
長束正家 1100名
大谷吉継 600名
※人数は資料によって違いがあります。
よく状況を呑み込めていなかった盛親達長宗我部勢だったが、
西軍に味方すると決まればなんとしても勝ち戦にするぞ!っと頑張った。
盛親は西軍諸将の中でも積極的に戦い、伏見城や安濃津城(あのつじょう)を攻め落としながら東に進軍した。
最終的に盛親が関ケ原に着陣したときは2100名であったという記録がある。