忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

【長宗我部盛親列伝 -20-】

盛親の子供たちの処遇だが、
長男盛恒(もりつね)は父と共に大坂の陣に参戦し、最期は父盛親と共に斬首された。盛恒の息子盛胤(盛親の孫)もまた、六条河原にて父、祖父と共に斬首された。

※この盛恒、記録が乏しいが大坂の陣時点での年齢を推測してみよう。
父盛親が死去した時の年齢は41歳
生まれた年が1575年なので
1615-1575=40となる。誕生日の関係などから41歳でもつじつまが通る。
盛親が家督争いで兄信親の娘と結婚した時期が1587年頃であり、
1587年に婚姻したとすると
1587-1575=12歳。辛うじて子供が産める年齢ではある。
一般的な日本人の精通時期は13歳前後である。(戦国時代と現在は違うかもしれないが・・・)

では結婚相手信親の娘はどうだろう。
兄信親が戸次川で討死したのが1587年
生まれた年が1565年なので
1587-1565=22歳
精通が13歳だと仮定すると最も早く生まれて信親が14歳の時(出産までの時間がある為)
よって信親娘は1587年時点で
22-13=9歳
一般的な日本人の初潮が10~13歳頃なので、仮に10歳で初潮を迎えたとすると
最短で長宗我部盛恒は1589年生まれとなる。
つまり死去したのが1615年なので
1615-1589=26歳となる。
当然前後はすると思うがどちらにしても若武者であった事は確かであろう。


次男盛高(もりたか)、三男盛信(もりのぶ)は土佐に逃げ帰ったが、山内家によって発見されて処刑された。
四男盛定(もりさだ)五男は京都でとらえられてことごとく処刑された。


徳川幕府は長宗我部一族を根絶やしにし、長宗我部は完全に滅亡しのだが、
近年長宗我部の子孫(直系)と称する方が現れている事もあり、徳川の残党狩りから
逃れた盛親直系の人物がいたと思われるが・・・真相は・・・