忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

久万兵庫

 

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〇 【久万兵庫(くまひょうご)】

〇 生没年不詳

 

兵庫は土佐国長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)」の家臣です。
父は「久万俊宗(くまとしむね)」といいます。(一説では弟であるとも言われています。)
兵庫は通称です。名前は「俊政(としまさ)」になります。

1573年、土佐に「小島源蔵(こじまげんぞう)」と呼ばれる有名な関取がやってきました。
元々超相撲好きな元親はさっそく、源蔵を呼びます。
小島源蔵は全国を修行して相撲道を極めていました。身長は6尺5寸(約2メートル)で、巨漢。当然の如く負けなしでした。

元親は源蔵を見て愕然としました。年は30手前ですが、風貌は40を超えているようでして、源蔵は元親に対して自信満々な態度で
「私の力は150人力を誇りますよ」

と言い放ちます。
せっかく土佐に来てもらったのに、相手をする者がいないでは長宗我部家の恥辱にあたると、家臣たちから力自慢を集めました。
「戸波親武(へわちかたけ)」や「江村小備後(えむらこびんご)」等長宗我部自慢の豪傑が集結します。
協議した結果「親武こそが相手にふさわしい」となりました。
しかし、親武は
「私が万が一負けたら長宗我部の名を汚してしまいますれば・・・」

と辞退してしまいました。

弱った様子の元親の前に久万兵庫が歩み出て、志願します。

喜んだ元親は行事として「福留隼人(ふくどめはやと)」を務めさせると、源蔵対兵庫の相撲大一番が始まりました。
噂を聞いて近隣から見物人が押し寄せます。
風貌はまるで大人と子供程であり、見物人たちは「これは勝負にならない」とぼやきます。
しかし、大勝負が始まると兵庫は猛進してくる源蔵をひらりと交わすと、周囲をくるくると回り始めます。
翻弄される源蔵の両手首をつかむと、回しをつかんで一気に源蔵を突き飛ばしました。
見物人は歓声を上げて、老若男女みな大興奮。
元親も立ち上がって拍手して両名を称えてそれぞれに褒美をあたえました。
翌日、兵庫は元親から
「比類なき高名、よくぞ家の面目を保った。源蔵に勝ったからには兵庫こそが相撲日本一である。しかし、本日から相撲を取ることは禁止する」

と言って知行を加増しました。
この話以外で特に兵庫が登場する書物が発見されていないのでこの後どうなったか等は不明です。

 

○久万兵庫をかんがえる
兵庫よりも源蔵の風貌に驚かされますよね。当時の日本人の平均身長は大体140~150くらいとのことなので、異例中の異例。

まさに巨人に見えた事でしょうね。本当だとしたらこんな大男を取り立てない大名たちはどうしてたんでしょう?
士官を断り続けて、ひたすらに相撲道に打ち込んだのでしょうかね。
戦国時代は戦ばかりが注目されますが、様々な文化人やスポーツ選手?がいる点においては現在と同じような状態だったと思います。
兵庫は一世一代の賭けをしたのかもしれません。居並ぶ者たちがやりたがらない役目を「我こそは」と名乗る辺り、度胸も据わっていたんでしょうね。
場面は違いますが墨俣一夜城の「木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)」の話を思い出してしまいます。