忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

元親 VS 秀吉

(9)降伏後の四国

降伏した元親は土佐一国が安堵されます。 阿波一国は蜂須賀家政に与えられました。 本当は蜂須賀小六に対してだったが、小六が太閤の側で働きたいと言ったため息子が受けることとなりました。 讃岐は「仙石 秀久(せんごく ひでひさ)」が大半を、一部「十河…

(8)忠兵衛の思い

程なく秀長隊も一宮城にて城主「谷 忠兵衛 忠澄(たに ちゅうべえ ただずみ)」を降伏させると、白池城へと迫ります。 同じ頃「小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)」、「吉川 元長(きっかわ もとなが)」ら毛利軍も伊予を平定します。いよいよ長宗我部包囲…

(7)天正の陣

伊予国に進軍した毛利軍は4万にも膨れ上がります。毛利の総大将「輝元(てるもと)」は備後国三原に留まり、実際に攻撃を行ったのは 「小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)」、 「吉川 元長(きっかわ もとなが)」 らでした。 隆景は第一軍として伊予国今…

(6)豪傑 比江山親興

さらに阿波の内陸へと進軍する秀長隊は膨れ上がった兵を2つに分けて、 秀長、小六は一宮城(いっくじょう)(徳島県徳島市)へ、 秀次、官兵衛は岩倉城(いわくらじょう) (徳島県美馬市)へと進軍します。 岩倉城を5千の兵で守る「比江山 親興(ひえやま…

(5)豊臣軍の快進撃

総大将羽柴秀長・秀次隊6万は淡路島より阿波国土佐泊へと上陸します。木津城(きづじょう)を包囲中に、讃岐より到着した黒田隊と合流します。木津城を守っていた「東条 関兵衛(とうじょう かんべえ)」はおびただしい数の敵を前に良く持ちこたえていまし…

(4)元親の計略

実は讃岐の城が簡単に落ちていったのには理由がありました。 元親は戦力を植田城に集結させ、簡単に城が落ちることによって油断した黒田軍を植田城に引き付け、その隙に白池城(徳島県三次市)に居た主力部隊が背後から叩く作戦だったのです。 しかし、軍略…

(3)官兵衛の行動

1585年6月 黒田官兵衛は「蜂須賀 小六(はちすか ころく)」 「宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)」らと屋島経由で讃岐へ上陸しました。黒田隊は次々と讃岐の城を落とし、植田城に迫ります。植田城は長宗我部一門の「戸波 親武(へわ ちかたけ)」が守っ…

(2) 四国征伐開始

1585年5月 総大将であった秀吉は病の為、総大将を弟の小一郎秀長にし、副大将を秀次とした。 総勢10万を超える大軍勢を四国に攻め込ませます。 対する長宗我部軍は4万、本陣を四国の中心にある 白池城(徳島県三次市)に置きました。 先鋒の黒田隊2…

(1)元親の四国統一

1585年(天正十三年) 元親は伊予湯築城(いよゆづきじょう)にて河野通直を破り、四国統一を成し遂げた。しかし、時の覇者である羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、元親の四国統一を認めることなく一方的に讃岐、伊予を割譲(かつじょう)し、秀吉に降伏するよう…