忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

【長宗我部盛親列伝 -04-】

 元親の判断は四男千熊丸と信親の娘を結婚させて後継者として決定した。

 元親の鶴の一声は絶対であったが、当然五郎次郎を推していた吉良親実や比江山親興は元親に直言する。家臣の話を重視していたかつての面影はこの時の元親には無く、邪魔者に対して切腹を言い渡した。

 

 戸次川で有力な家臣を沢山失い、跡目争いでも親実や親興ら優秀な家臣を当主自らの手で亡き者にしてしまった結果、長宗我部家家臣団の質は著しく低下してしまった。

 跡目争いに敗れた香川五郎次郎親和もまた、1587年(天正15年)突如岡豊城下にて死去した。死因については様々な説が残っているが真相は謎。

 この事は豊臣家にも報告されたが豊臣側は最後まで千熊丸を長宗我部の跡取りとは認めなかった。とりあえず、絶対的な当主元親が元気なので豊臣家も一旦保留という形をとった。

しかし、元親は千熊丸を正統な後継者として育てていく。
 元親は烏帽子親として主君であると豊臣秀吉重臣増田長盛から「盛」の字を授かり元服した。

ここに長宗我部盛親は誕生した。
 

 豊臣家の記録等から当時の長宗我部家の格付けは非常に低かったと推測される。
毛利や上杉、島津に比べると見劣りしてしまうのは当然だろう。

 豊臣家にとって重視される家であれば、跡目争いに関してもっと厳格な処置があるはずだが、軽視している大名(その気になればいつでも消せるし、反発しても怖くない勢力)の跡目について少々意見が違っていても問題は無かったのだろう。

結果的に長宗我部家としては豊臣家からお咎めも無く時代は進んでいくことになる。