【長宗我部盛親列伝 -11-】
結局戦局は東軍圧勝で終結した。長宗我部隊は敗走し、なんとか土佐へと逃げ帰った。
肝心な大戦で全く戦をしなかった長宗我部家だったが、伏見等では中途半端に頑張ったので徳川からは完全に敵とみなされた。
毛利と違い裏工作も何も出来なかった示ので致し方ない。
帰国した盛親は早速徳川に対して弁明と謝罪を行う交渉に出る。
家臣の立石助兵衛(たていしすけべぇ)、横山新兵衛(よこやましんべぇ)らに徳川家の重臣井伊直政の元に派遣した。
これには別の話もあり、井伊直政側から家臣を土佐に遣わして盛親が直接謝罪するように伝えたという説。
どちらにしても関ヶ原敗戦後長宗我部家は風前の灯状態になってしまったことには変わりない。
一分の望みを持って嘆願をした盛親だったが現実は厳しく、切腹こそ免れたが改易処分となってしまった。
改易理由には諸説あるが、簡単に紹介すると
・兄である津野孫次郎親忠を殺害してしまった事が家康の逆鱗に触れてしまった説
・当初は土佐没収の替りに別の場所を与えられる予定だったが、国替えを不満に持つ家臣の一揆が起こりその責任を取取らされ、国替えを反故にされて改易となった説
家康は当初「あの元親の息子にあるまじき失態」として切腹を言い放ったが、井伊直政の懇願により改易処分となった。
25歳の若き当主長宗我部盛親は、1年余りで家を潰してしまった。
改易され、浪人となった盛親は土佐に戻ることは当然許されず、京都所司代板倉勝重(いたくらかつしげ)の監視下に入り伏見に住むことになった。