忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

【長宗我部盛親列伝 -03-】

 本来ならば冷静沈着な元親も自慢の息子の死を受け入れられず判断出来ない、その事もあり家臣の亀裂は益々肥大化していった。
 この時(1587年)千熊丸は12歳、歴史書によると短気で傲慢(ようするに我がまま)な性格であり、当主としての器量を持ち合わせているかは不明。そもそも12歳でその才覚を問われても仕方のない話であるが・・・

 

 五郎次郎親和は香川家に出ているが年功序列を重視するのが一般的な習わしである。
年齢的にも当主として手腕を発揮できる可能性があり、戦の経験もある。
何より豊臣家からの後ろ盾もある五郎次郎を推す一派に最も説得力があった。

五郎次郎を跡取りに考える有力家臣としては
 ・元親の甥(実弟吉良親貞の息子)吉良新十郎親実(きらしんじゅうろうちかざね)
 ・元親の従兄弟、比江山親興(ひえやまちかおき)
家中でも力を持っている家臣である。
新十郎は元親の娘も嫁がせているので、甥であり義理の息子でもある。

一方千熊丸を推す一派には
 ・元親の側近、久武内蔵助親直(ひさたけくらのすけちかなお)
がいた。

 この親直だが、戦死した元親側近の兄親信から「彦七(親直の幼名)は腹黒く卑しい(いやしい)男なれば、決してお取立て召さるな」と嘆願されていたが、元親はこの親直を側近として重用(ちょうよう)した。

 

 実は吉良親実と久武親直は犬猿の仲で、ドロドロとした人間関係も複雑に絡み合った跡目争いであった。これは推測だが、千熊丸にとっては後継者がどのような意味なのかもよく理解できなかったと思われる。
 それに対して五郎次郎はどうだろう?年齢的には20歳、急に湧いてきた次期当主への道を魅力的に感じたのではないか。

 

 一方三男孫次郎親忠(15歳)は豊臣家へ人質として出されており、年齢も15歳という事もあり早々に自ら辞退し家督争いの候補から抜けた。
 この孫次郎だが人質に出された先の教育環境が非常によく、性格も聡明利発で残された息子たちの中では一番信親に近い能力であった。後の話ではあるが藤堂高虎とも交流があり入魂の間柄となった。

 最終的に五郎次郎と千熊丸を巡っての壮絶な跡目争いが行われることになるが、絶対的権力者である元親が存命していたので、判断は元親の判断に委ねられる事になった。