忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

【長宗我部盛親列伝 -16-】

慶長20年(1615年)3月には、大坂にて和議に納得できない浪人たちが暴発し、狼藉を働いたり、埋められた堀や壊された城壁を徳川家に無断で勝手に修復し始める等の
事象が発生しだした。
幕府はは豊臣家に対して浪人の解雇、もしくは豊臣家の移封(いほう)を命じた。

翌月には豊臣家がこの命に対して承服できない旨を伝えた。


再び徳川、豊臣との戦が始まろうとしていた。
豊臣家は戦においてはどうしても浪人たちの力を借りる必要があるが、前回の事もあり金子(きんす)を浪人衆に与えた。
しかし、堀が埋められた大阪城の防御力は零に等しく、豊臣を見限って去る者が続出し、浪人衆の総兵力は7万余りとなってしまった。
浪人たちが離れていく中、盛親は大坂にとどまって最後の決戦に向かった。

 

※これは私感になりますが、この時盛親はもはや豊臣に勝ち目はないと悟っていたのではないかと思います。しかし、逃げた所で徳川に怯えながら惨めな余生を過ごすくらいなら、華々しく戦って長宗我部当主としての名を残したかったのではないでしょうか・・・

 

再び豊臣家中で評定が開かれたが、今回は籠城戦を行っても守り切れないと判断され、
野戦にて徳川と決戦に及ぶ事となったが、今回の野戦は奇襲にもならず、万全の構えをとっている徳川の陣へ真正面より突っ込むといった勝機のほとんどない戦い方しか選択肢がなかった。