【長宗我部盛親列伝 -06-】
1597年(慶長2年)には分国法として「長宗我部元親百箇条」を親子で制定した。
1598年(慶長3年)に、天下の覇者豊臣秀吉が他界した。
ワンマン経営者の秀吉がいなくなった事によって、日本は次の権力者を決める争いへと突き進むことになる。
秀吉の後継者は無論のこと、豊臣秀頼(とよとみひでより)であったが、御年6歳。政治が行える訳もなく、秀頼の補佐(親代わり)に誰がなるかについての
争いである。秀吉は死の間際まで、秀頼を頼むと有力大名に話していた。
政(まつりごと)は五大老、五奉行の協議を持って決めることを遺言としていたが、実際は秀吉の描いた状態にはならなかった。
五大老(五人の衆)とは、晩年の秀吉が頼りにした有力大名達を「大老」として政務に関与させた。
具体的には太閤秀吉が発令した法令「御掟(おんおきて)五ヵ条御掟追加九ヵ条」
に連署した有力大名を指す。
これは1595年(文禄4年)当時の豊臣家後継者であった豊臣秀次(とよとみひでつぐ)を罪人として切腹させた俗にいう(秀次事件)後の政治的混乱を鎮める為に行った処置であり、当初は6名だったが小早川隆景が1597年(慶長2年)に死去ている。
秀吉が実際に自分の死後秀頼が元服するまでの間の政を託したのは残りの五人である。
・徳川家康 (関東八州 256万石)
・前田利家 (北陸・加賀 83万石)
・毛利輝元 (中国 112万石)
・上杉景勝 (奥州 120万石)
・宇喜多秀家(山陽 57万石)
これは余談であるがこの時の元親は土佐22万石である。
一方五奉行は政治の実務的な仕事を仕切った大名であり
・浅野長政(甲斐甲府 22万石)司法
・増田長盛(大和郡山 22万石)土木
・石田三成(近江佐和山 19万石)行政
・前田玄以(丹波亀山 5万石)宗教
・長束正家(近江水口 5万石)財政