【長宗我部盛親列伝 -10-】
西軍総大将は名目上毛利輝元となっていたが、輝元はあくまでも秀頼の代理。
肝心な秀頼は若干7歳、母の淀殿も当然秀頼を戦場に出すことを許可しない。
実際に東軍の本軍として毛利の部隊を率いたのは21歳の若武者毛利秀元だった。
この毛利と徳川の間でも三成や盛親がしるはずもない密約があった。
毛利家の吉川広家、家老の福原広俊らは裏で徳川家康と交渉し、毛利には徳川に敵意を示す意思は毛頭無いと伝えていた。
この時毛利家もまた西軍派と東軍派に分かれており家臣内で分裂していた。
当主の輝元は元来優柔不断な性格と言われており、ケセラセラ的に物事を考えていた。
大局としては西軍に付いた形にはなったが、それは外交面で優れていた安国寺恵瓊等が主導権を握った結果だった。
恵瓊と三成は非常に仲が良かった。
一方武闘派の筆頭が吉川広家であり、毛利家の軍事を掌握していた、
広家は「戦においては毛利は徳川に手を出さない」という内容の密書を徳川方に送っていた。
さて、残念なことに長宗我部勢はこの西軍で一番戦う気持ちのない毛利の部隊と共に南宮山に布陣する形になった。
しかも先に入山したので山の一番奥に布陣した。
戦が始まると盛親はしばらく傍観していたが、一向に南宮山から下山して戦おうととしない毛利の軍勢に疑念を抱く。
毛利秀元は戦う意思はあり、参戦しようとしたが、内通していた吉川広家によって制御された。
そんな毛利の事情など知らない盛親は静観するしかなかった。
なんとか出陣したい盛親は幾度となく毛利勢に対して使者を遣わしたが
「ただいまより我が軍は行厨をとる」と言われる始末だった。
この話は「宰相殿の空弁当」と言われ有名である。
ちなみに「宰相(さいしょう)」とは毛利秀元の官位である。