忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

長宗我部阿古

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〇 長宗我部 阿古(ちょうそかべ あこ)姫

〇 生年不詳~1653

 

阿古姫は「長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)」の娘として生まれました。
長男「信親(のぶちか)」から数えて7人目の子供で、「盛親(もりちか)」の妹になります。
かつての宿敵であった佐竹家の当主「佐竹 親直(さたけ ちかなお)」に嫁いで二人の男の子を産みます。
1615年、大坂の陣で兄盛親や夫と共に大坂城へ入城しますが、豊臣方は滅び、兄は斬首、夫は討死してしまいました。
阿古姫は大坂城から落ち延びて、二人の息子と共に仙台藩、「伊達 政宗(だて まさむね)」の兵によって捕らえられてしまいました。
長宗我部一門である事から斬首は免れないと思っていましたが、政宗の判断により助命されます。
その後、伊達家の次女として召し抱えられ「中将(ちゅうしょう)」と呼ばれるようになります。
阿古姫は元親の娘であった為、教養も非常に豊かであり、弁も立ったので、政宗からも信頼され、近侍(きんじ)として長年仕えました。
近侍とは、主君のお側に仕える立場の人。

〇阿古姫をかんがえる
大坂城の落城時には、阿古姫も覚悟を決めていたことでしょう。しかし、伊達政宗の器量は立派ですね。下手したら幕府に背いた事を
咎められるかもしれません。なにせ盛親の一門なんですからね。いくら政宗でも徳川は恐い存在だったに違いありませんから。
命拾いした阿古姫でしたが、二人の息子も小姓として取り立てられて、出世します。
初めは故郷である上ノ加江(高知県高岡郡)から「賀江(かえ)」姓を称し、それぞれ、蔵人、忠次郎と名乗りましたが。
上ノ加江とは阿古姫の嫁ぎ先である佐竹家の領地(上ノ加江城)ですので、その土地名を由来としました。
後に長男は「五十嵐 元成(いがらし もとなり)」次男は「柴田 朝意(しばた とももと)」と名乗るようになりました。
五十嵐とは伊達家の重臣であった五十嵐家の名跡を継ぐよう命じられます。
柴田とは米倉城城主であった「柴田 宗朝(しばた むねとも)」の養子に迎えられて柴田を名乗りました。
当初は名前も「朝親(とももと)」という漢字「親」は元親の「親」でした。