忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

中内惣右衛門

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〇【中内 惣右衛門】(なかうち そうえもん)

〇生年不詳~1624年

惣右衛門は土佐国「長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)」の家臣であり、古い記録では
1562年に本山家吉良城(高知県高知市春野町大谷)別名弘岡城攻めに名前が出てきます。
1600年関ケ原の戦いで「盛親(もりちか)」と共に参陣するが、敗れて大坂まで敗走します。
その際、500の兵を率いて盛親を守ります。結局大坂についた頃には7名になってしまいます。
討死したというよりか、逃げ出した兵が多かったみたいです。

長宗我部家の改易後は士官先を転々としますが、1615年大坂の陣では再び盛親に従って戦います。
結局盛親は敗れて逃げ出します。惣右衛門も共に敗走しますが、山城国八幡にて盛親と共に捕縛されてしまいました。

盛親は処刑されましたが、惣右衛門は盛親に対しての忠義心を認められ、兄が士官していた「蜂須賀家(はちすかけ)」
より、士官の誘いを受けますが丁重に断ります。
その後は土佐に戻って剃髪(ていはつ)します。
※剃髪とは仏門に入る際に、髪を剃る事をいいます。ようは坊主になったってことですね。

名を「惣入(そうにゅう)」と号して盛親の菩提(ぼだい)を弔いました。1624年静かに最期を迎えました。
※菩提とは死後の冥福を表します。

〇中内惣右衛門をかんがえる
惣右衛門というのは通称でして、「中内三安(なかうちみつやす)」と言います。
中内も(なかのうち)とも伝わっていますので当時は結構あいまいに呼んでいたと思われます。
山内一豊も(やまうち)(やまのうち)の呼び方がありますよね。

大坂夏の陣の後潜伏していた所を捕縛されたいきさつが伝わっています。
「長坂三郎左衛門(ながさかさぶろうざえもん)」は、豊臣軍の落ち武者を探していました。
八幡の茶屋で休憩をした際、店主に落ち武者らしき者がいないかと尋ねると店主は、
「最近の事ですが、毎晩食べ物を買っていく浪人風の輩がいますので、跡をつけてみると
近くの葦原(あしばら)に隠れるように入っていきました。」と答えました。
三郎左衛門は店主に案内をさせ、葦原を調べると、座り込んでいた盛親と惣右衛門を発見したとの事です。
長坂三郎左衛門は奇しくも「蜂須賀家」の家臣でした。

殉死せずに寿命尽きるまで盛親の菩提を弔った惣右衛門の心中はどんなに無念だったことでしょうか・・・