(6)豪傑 比江山親興
さらに阿波の内陸へと進軍する秀長隊は膨れ上がった兵を2つに分けて、
秀次、官兵衛は岩倉城(いわくらじょう) (徳島県美馬市)へと進軍します。
岩倉城を5千の兵で守る「比江山 親興(ひえやま ちかおき)」は長宗我部一門屈指の豪の者で、岩倉城も阿波で一番堅固な城であった為、秀次は考えます。
官兵衛に意見を求めると、官兵衛は。
「岩倉は強固な要害なれば、力攻めはなりません。謀略を持って降伏させるが良策でしょう。」
と助言します。
秀次はこの策を秀吉に報告しました。
秀吉からは
「謀(はかりごと)に関しては大小に関わらず全て官兵衛に任せよ。」
と返事があったので、秀次は官兵衛に全てを任せます。
官兵衛は岩倉城の周辺に櫓(やぐら)を組み、鉄砲を打ち込みます。
夜になると城の周りから一斉に鬨の声(ときのこえ)(えいえいおー!!等)をひっきりなしに上げさせました。
岩倉城の兵士は休まる時も無く、日に日に追い詰められていきます。
官兵衛は岩倉城の士気が低下した頃合いを見て降伏勧告を促します。
さすがの親興も降伏し、土佐へと帰っていきました。
岩倉で敵の戦力が削がれる事を期待していた元親は落胆します。
そして、いよいよ長宗我部元親が居る白池城(徳島県三好市)へと迫って来たのでした・・・