【桑名 弥次兵衛】
〇 桑名 弥次兵衛 吉成(くわな やじべえ よしなり)
〇 1551~1615
弥次兵衛は土佐国長宗我部元親の家臣「桑名 藤蔵人」(くわな とうぞうじ)の長男として生まれた。
桑名一門は元親の四国平定に大いに貢献して、各地で武功を挙げていきます。
中村城代に任命されるなど、元親からの信頼も厚かった家臣でした。
1586年、秀吉の九州征伐にも参加しますが、1587年戸次川の戦いにて島津軍に大敗し、元親と共に逃走します。
逃走中、豊後にて元親が落ち武者狩りにあった際、元親の窮地を救う働きをして無事に伊予国(今の愛媛県)まで落ち延びました。
その後も元親から頼りにされ、盛親に対して「戦においては弥次兵衛を先手(さきて)とせよ」と遺言したと言われています。
「先手」とは先陣・先鋒の事であり、家臣の中で最も武勇に優れ、なおかつ信頼できる者を選んだとされる重要な役割です。
先鋒が負けると軍全体の士気が下がるので絶対に負けることができないとされています。
関ケ原の戦いで主家である長宗我部家が改易となると、盛親の兄「津野 親忠」(つの ちかさだ)と誼(よしみ)と通じていた「藤堂 高虎」(とうどう たかとら)に 2千石で召し抱えられました。
藤堂家で忠臣に励んでいた弥次兵衛ですが、思わぬ出来事が降り注いでしまいます。
1615年、大坂の陣が勃発すると豊臣方の武将として、長宗我部盛親が戦場に登場したのです。
弥次兵衛の主、藤堂は徳川の味方ですから、敵同士になってしまいます。藤堂家に対しての恩もあり、長宗我部側に与することもできません。弥次兵衛はさぞ悩んだことでしょう。
冬の陣では盛親は籠城だったので直接戦うことはあまりなかったのですが、夏の陣は野戦です。
運命のいたずらなのか、長宗我部隊と藤堂隊は「八尾」(やお)にてついに激突してしまいます。
弥次兵衛は藤堂隊の武将として大いに奮戦します、と同時に長宗我部隊に突撃して壮絶な戦死を遂げました。享年61歳
藤堂には戦働きで、長宗我部には死する事で両家に対しての忠誠を示した弥次兵衛を同じ土佐者として誇りに思います。
〇桑名吉成を考える
通称である「弥次兵衛」の方がしっくりと来るので、今回は吉成ではなく弥次兵衛で解説させて頂きました。
弥次兵衛は関ケ原で改易になった盛親に対して、藤堂家家臣となった後も密かに仕送り等をしていたみたいです。
小さい頃より忠誠を持ち続けた長宗我部家を死ぬ時まで裏切ることは出来なかったのかもしれませんね。
実際、関ケ原後は何とか長宗我部家の改易を阻止する為に力を尽くしたことからも、その忠誠心が垣間見れます。