忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

【長宗我部盛親列伝 -18-】

藤堂勢の先鋒には藤堂高刑(とうどうたかのり)がいた。
高刑は先の関ケ原において大谷刑部の首を埋める刑部の家臣湯浅五助を発見し、見事打ち取った武将である。
高刑と行動を共にしていたのが桑名弥次兵衛吉成である。
弥次兵衛は元長宗我部の家臣で関ケ原後に藤堂家に仕えていた。
盛親が浪人時代にも仕送りを行っていた献身的な家臣であった。

先鋒隊が長瀬川にいた長宗我部勢に近づいてくると、盛親は家臣たちに下知し、身を伏せて隠れた。
この際盛親は
「我が命が下るまでは決して立ち上がってはならぬ。命に背くものあらば我が斬り捨てる」
と家臣たちに命令した。
盛親の伏兵作戦は見事にはまり、藤堂勢は大混乱に陥った。
高刑、弥次兵衛は共に討死し、旗本で先鋒隊に続いていた
藤堂氏勝も致命傷を受け、退却中に死去した。
長宗我部の先鋒吉田隊を破った藤堂高吉も駆けつけて長宗我部勢と交戦を開始したが
戦況は長宗我部優勢であった。

戦闘は長期化していたが、あと少しで藤堂勢を壊滅させられる所で、藤堂勢に援軍が現れた。
若江にて戦っていた井伊直孝が木村勢を壊滅させて八尾に到着したのだ。

井伊勢の合流により孤立する事を恐れた盛親は已む無く撤退し始めた。
久宝寺村にて追撃してきた藤堂勢を迎撃しようとしたが、援軍によって息を吹き返した
藤堂勢に蹴散らされ、平尾経由で大坂城へと撤退した。
長宗我部勢を撤退させた藤堂勢であったが、その被害は深刻であった。
それは翌日の天王寺・岡山での先鋒を辞退せざるを得ない程だった。
しかし、被害を受けたのは長宗我部勢も同じであり、天王寺・岡山に参戦すら出来なかった。

【長宗我部盛親列伝 -17-】

大坂夏の陣において、盛親は大坂城東側の河内方面から向かってくる藤堂高虎井伊直孝など徳川勢55000の抑えとして出陣した。

 

先方は木村重成6000、その後すぐに長宗我部盛親増田盛次5300が出陣した。

木村重成は今福方面を視察して幕府軍が攻めてこないと考えて、家康秀忠の軍勢の側面を攻撃できる若江に進軍した。


幕府軍の藤堂良勝は物見にて木村重成ら豊臣軍が若江に向かう姿を捉えた。
良勝は攻撃命令を発した。

その一方八尾方面の萱振(かやふり)にいた長宗我部勢の先鋒吉田内匠重親は
藤堂勢の藤堂高吉に攻められた。

重親はよく藤堂勢と戦ったが部隊に鉄砲隊が居なかった為に藤堂の鉄砲隊
の的にされて散々打たれに打たれた末討死した。

盛親は重親の報告を受けた際に困惑してしまう。
藤堂高虎とは関ケ原以前より親しい間柄であり、藤堂の家臣には旧長宗我部家臣達が
沢山雇用されていたのだ。

 

しかし、戦においては致し方なく、盛親は藤堂勢への備えを取り、
長瀬川にて迎撃(げいげき)態勢をとった。

【長宗我部盛親列伝 -16-】

慶長20年(1615年)3月には、大坂にて和議に納得できない浪人たちが暴発し、狼藉を働いたり、埋められた堀や壊された城壁を徳川家に無断で勝手に修復し始める等の
事象が発生しだした。
幕府はは豊臣家に対して浪人の解雇、もしくは豊臣家の移封(いほう)を命じた。

翌月には豊臣家がこの命に対して承服できない旨を伝えた。


再び徳川、豊臣との戦が始まろうとしていた。
豊臣家は戦においてはどうしても浪人たちの力を借りる必要があるが、前回の事もあり金子(きんす)を浪人衆に与えた。
しかし、堀が埋められた大阪城の防御力は零に等しく、豊臣を見限って去る者が続出し、浪人衆の総兵力は7万余りとなってしまった。
浪人たちが離れていく中、盛親は大坂にとどまって最後の決戦に向かった。

 

※これは私感になりますが、この時盛親はもはや豊臣に勝ち目はないと悟っていたのではないかと思います。しかし、逃げた所で徳川に怯えながら惨めな余生を過ごすくらいなら、華々しく戦って長宗我部当主としての名を残したかったのではないでしょうか・・・

 

再び豊臣家中で評定が開かれたが、今回は籠城戦を行っても守り切れないと判断され、
野戦にて徳川と決戦に及ぶ事となったが、今回の野戦は奇襲にもならず、万全の構えをとっている徳川の陣へ真正面より突っ込むといった勝機のほとんどない戦い方しか選択肢がなかった。

【長宗我部盛親列伝 -15-】

大阪冬の陣においては、谷町口(大阪城の南)に佐野道司、栗谷元種、大谷吉治らと
共に布陣した。
近くに有名な真田丸もあった。
これは真田源次郎のみで徳川軍を釘付けにし、大損害を与えたと思われがちだが、
実際には真田丸の半分ほどは盛親の手勢が着手していた。
12月4日には真田丸にて井伊直孝(いいなおたか)や松平忠直(まつだいらただなお)の軍勢に大損害を与えた。
冬の陣では終始優勢に戦っていた豊臣軍だったが、徳川方の用いた大筒(おおづつ)の玉が大阪城天守に命中すると恐れおののいた淀殿らによって浪人衆の知らぬ間に徳川方と和議を結んでしまった。

豊臣上層部の勝手な和議に盛親ら浪人衆は困惑するが、しょせん雇われの身の為どうする事もできなかった。
和議の条件は大坂城の外堀を埋めるなどの条件があった。
しかし、実際には外堀だけでなく、内堀もすべて埋められてしまった。

【長宗我部盛親列伝 -14-】

大坂では秀頼から手厚く出迎えられ、盛親は浪人衆の中でも「五人衆」と呼ばれ優遇される。
五人衆は以下の五人

長宗我部盛親
毛利勝永
真田源次郎信繁(真田幸村
明石掃部明石全登
後藤又兵衛基次

大坂には盛親以外にもどんどん浪人たちが押し寄せてくる。
兵隊の数を補充するには良い作戦だったが。来るものは拒まずの
大坂方の方針は後々自らの首を絞めることに繋がる。

当然だが、寄せ集めの集団となり、考え方も様々で団結するはずもない。
豊臣家臣団も血の気の多い浪人達を統率できる能力を持つものはいなかった。

有力な浪人衆を踏まえての評定が始まった。
豊臣家の家臣達は籠城を支持するが、浪人衆が反論する。
戦において戦略に長けていた真田源次郎は徳川の部隊が大坂に集結する前に近畿の主要な個所を占拠して、西国の大名が徳川方と連携出来ないように連絡網を遮断し、近江国瀬田川で陣を敷き大坂入りしてくる徳川の主力を迎え撃つ。


その間に西国の大名たちを味方につけていく作戦を主張した。

古来より籠城した場合、負けない可能性はあるが、決して勝つことは出来ない。
大坂に集結した浪人の数ならば近畿周辺は容易に豊臣の旗に塗り替えられるという算段だった。

しかし、結果として浪人衆の作戦が採用されることなく、豊臣家の直臣達の主張する籠城戦に決まった。
理由は豊臣家の宿老大野治長(おおのはるなが)らの能力が低いとの説もあるが、秀頼の母淀の存在であったと言う。
城を出て戦う際は当然総大将である秀頼も陣頭に立って命令を下す必要があるが、溺愛している息子を危ない目に遭わすことを母が認めるはずがなかった。
秀頼も当初は信頼する源次郎の意見に従う意向を示していたが母の一括により断念した。
源次郎を始め浪人衆達も雇い主である豊臣秀頼の決断には逆らえない。

先手必勝のチャンスを指を咥えてやり過ごした豊臣家であったが、一方の徳川は万全の態勢で悠々と大坂入りをした。
周辺の大名たちも誰一人として豊臣に味方する者はいなかった。
大阪城を完全に徳川軍が包囲した陣形となった。

【長宗我部盛親列伝 -13-】

このまま寺子屋の先生として細々と一生涯を終えると思われていた盛親に再び戦場への誘いがやってきた。
慶長20年(1615年)豊臣家の使者が盛親を尋ねた。

徳川家康も当初は子供であった豊臣秀頼に対して一種の愛情を持って接してきたが、
老いていくに従って自分が死んだ後の徳川家を考え、豊臣家滅亡に向けたシナリオを練り始める。
もし、豊臣秀頼が平凡なバカ殿であれば、このような脅威は生まれなかったもしれないが、成長した秀頼の姿を見た家康はその聡明利発さに衝撃を受けてしまった。

我が息子たち(秀忠等)よりも遥かに能力が秀でている事を天下人家康が見過す訳がない。
くすぶり続けていた徳川、豊臣の対立が一気に燃え上がってしまいます。

豊臣家をあからさまに挑発し始めた徳川家は、事あるごとに豊臣家の行事に難癖をつけていった。
有名な方広寺大仏殿の梵鐘問題等がある。

豊臣家は徳川への備えとして日本中に散らばっている徳川に恨みを持つ浪人たちに
声をかけ始めた。その候補に盛親も含まれた。
盛親への報酬は戦勝の暁には長宗我部家の復興と土佐一国を与えるとのことで、
これは盛親にとって悲願であり、千載一遇のチャンスであったことは言うまでもない。
この時盛親は40歳、盛親の気持ちは一気に燃え上がった。

とはいえ、盛親は京都所司代の監視下にあり、まずは京を脱出する必要があった。
脱出をする際に従った家臣は6名。
その後盛親が大坂に向かう事を聞いた旧家臣たちは次々に盛親のもとへ馳せ参じた。
大坂に着いた時には総勢1000人を超えていたと言われる。
これは大坂に集結した浪人の中でも群を抜いた勢力だった。
主な旧家臣としては
 吉田孫左衛門康政(よしだまござえもんやすまさ)
 吉田市左衛門政重(よしだいちざえもんまさしげ)
 中島与市兵衛重房(なかじまよいちべぇしげふさ)
 佐竹蔵人佐親直(さたけくろうどのすけちかなお)
 久万豊後俊朝(くまぶんごとしとも)
 富永藤五郎勝元(とみながとうごろうかつもと)
 五百蔵左馬進(いおろいさまのしん)

この左馬進だが、元は桑名親光の次男であり、戸次川で討死した五百蔵左馬進
の娘と娶って義父と同じ名を名乗った。

ちなみに同じような境遇の真田源次郎信繁は300名の旧家臣と共に入城している。
記録では盛親が入城した日は10月6日(月)。※グレゴリオ暦

【長宗我部盛親列伝 -12-】

関ヶ原の戦後、日本は一気に豊臣色から徳川色に塗り替えられていった。
その様子を盛親はどのような気持ちで眺めていたのか・・・

たらればの話だが、もし、盛親が東軍として土佐に引きこもり西軍と戦ったなら、土佐一国は安堵され土佐長宗我部藩が誕生していたであろう・・・

浪人時代の詳しい記録はあまり無いが、1610年(慶長15年)には名前を
「大岩祐夢」と称して寺子屋の先生として子供らに読み書き等を教えていたと伝わる。

大岩祐夢の読み方だが、剃髪したと仮定すれば
「おおいわ」よりも「たいがん」もしくは「だいがん」がしっくりくる。
祐夢は「ゆうむ」と読むのが一般的であろう。


※一部の記録ではこのような事は書かれていないので信ぴょう性は定かではありませんがここでは寺子屋の先生であったという説を支持して記述します。