忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

香川信景

f:id:mayuchi2014:20180226103922p:plain

f:id:mayuchi2014:20180417121119p:plain

〇 【香川信景】(かがわ のぶかげ)

〇 1527~1600

信景は讃岐国西讃(さいせん)の守護代「香川元景(かがわもとかげ)」の嫡男として生まれました。
居城は讃岐国本台山城(香川県仲多度郡)でした。
元の名前は「之景(ゆきかげ)」といいます。
1552年、「三好実休(みよしじっきゅう)」から、
「細川家を離反して三好家に臣従せよ」
と誘われますが、之景はこれを拒否します。
三好軍は1563年、総勢1万8000をこえる兵力で之景の牙城である天霧城(あまぎりじょう)へと迫ります。
天霧城の兵力は6000程でした。
数の上では不利であった香川軍でしたが、難攻不落の天霧城の前に三好勢は苦戦を強いられます。長期戦を不利と判断し、「香西元成(こうざいもとなり)」を介して和議を申し出ました。
香川家の所領を安堵するとの条件、三好家に従って軍役を務めるという条件にて和議が成立しました。(善通寺合戦)

1574年、之景は香西家と共に、「三好長治(みよしながはる)」と対立します。戦は之景達の勝利となます。讃岐における三好の勢力はどんどんと衰退してきました。
1575年には「金倉合戦」が勃発し、之景は西讃四郡(仲多度郡、三田郡、刈田郡那珂郡)を支配下に置きます。
1576年、機内で「織田信長(おだのぶなが)」の勢力が膨らんでいくと、之景は「香西佳清(こうざいよしきよ)」と共に「三好笑岩(みよししょうがん)」の仲介を得て織田家の臣下となりました。
その際、信長より「信」の字をもらい、信景と名乗るようになります。
しかし、1578年には、土佐より侵攻してきた「長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)」の攻撃を受け、藤目城(ふじめじょう)(香川県観音寺市)を皮切りに、次々と攻略されていきました。
笑岩はすでに亡くなっており、その頃讃岐国で勢力を持っていた「十河存保(そごうまさやす)」より参陣要求を受けますが、信景はこれを拒否します。
そして、信景は元親の軍門に降ります。
元親の次男「親和」を養子として迎えました。
1579年には、「羽床資載(はゆかすけとし)」を説得し、開城させました。
1585年、には元親の四国平定が事実上実現しましたが、その数か月後に「羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉)」の四国征伐によって長宗我部元親は降伏、香川家は取り潰しとなり、土佐国にて義理の息子と共に幡多郡山田郷にて暮らします。
信景の最後は実は不明で、土佐で天寿を全うしたという説や、戸次川で戦死した説、肥後国に移り住んたといった説もあります。
ともあれ死亡したとされているのは1600年なので戸次川での戦死説は有力ではなさそうですね。

〇香川信景をかんがえる。

信景は讃岐内では勢力も持ち、強固な天霧城をもっていたので、決して弱くはありませんでした。三好家との争いでも勝利を収めています。
しかし、時代が悪かったのか、外部からの侵略によって、あっさりと抵抗を止めてしまいます。
それほど長宗我部の勢いが強かったのかもしれません。織田家も1570年代後半は、本願寺や毛利との戦があり、四国に手を回す余裕もなかったと思いますので、自分の身は自分で守るを実践した形でしょう。
ひっついた長宗我部も太閤には勝てずに、とうとう香川家は取り潰されてしまう事になります。
1587年には長宗我部との鎹であった養子の親和も病気で死亡しますので、土佐に残る理由も無くなってしまいました。
微妙な立場になってしまった、信景が土佐から出る事は十分に考えられますね。

香川親和

f:id:mayuchi2014:20180226103922p:plain

f:id:mayuchi2014:20180413133657p:plain

〇 【香川親和】(かがわ ちかかず)

〇 1567~1587

親和は長宗我部元親の次男として生まれました。
父である元親が讃岐国(現在の香川県)に侵攻すると。讃岐の守護代であった香川信景に対して和睦政策を行い、その条件として信景の養子になりました。
親和は香川の軍勢を率いてとして讃岐制圧に力を注ぎます。

※ちなみに香川県にある資料としては「親政」らしいです。

月日は流れて、1585年に豊臣秀吉との合戦で父が大敗すると、香川家は改易されて秀吉の下へ人質として出されましたが翌年には土佐へ帰国しました。

元親からは幡多郡山田郷(現在の宿毛市有岡の辺り?)に領地をもらい、本人は岡豊城の近くに住みます。

1586年、戸次川(へつぎがわ)で兄信親が戦死すると、豊臣秀吉から元親に対して「親和を後継者とせよ。」と言われますが
元親はこれに従わず、四男千熊丸(後の盛親)を指名します。

1587年、親和は病に倒れ、岡豊城下で死亡してしまいました。享年20歳・・・若すぎる死でした。

 

〇香川親和を考える。

親和の突然死については諸説あります。急な病、元親による毒殺、ショック死・・・
確かにタイミング的には怪しいというか、腑に落ちない点は多くありますね。
しかし、文献が少ないので想像する事しかできません。

私としては、元親による毒殺がやはり有力かなと思います。
親和に対しては決して憎かった訳ではないでしょうが、家督争いでは邪魔な存在になってしまいましたよね。

また、「土佐物語」では
元々讃岐の豪族に養子だったけど、讃岐自体を元親が失って、親和の所領が実質的に無くなった事を不憫に思った元親が現在の居住地である小野の近くに新しく領地を加増します。
しかし、親和からしたら次の棟梁になるのに何で加増なの?って話になって、疑心暗鬼になります。
そのまま3年経ても家督についての話がないので、親和は弟の千熊丸が家督を継ぐ話になっていると思い、父に見放されたと落胆します。
そして、ずっと部屋にこもって食事もしなくなってしまいます。
家臣である吉良五郎兵衛の説得も聞く耳を持たず、とうとう病気になってしまいました。
さすがに、元親も「どうしたことか?」
と親和の元に行くと、親和は死の寸前でした。
元親は親和の耳元でこう励まします。
「五郎次郎よ、心持はどうだ?家督はお前に決めたぞ!!」
しかし、すでに親和は何の反応もないまま、眠るようにして息を引き取ります。

「弥三郎(信親)に先立たれて、3年の月日も経つか経たないかの時に五郎次郎(親和)も失ってしまった・・・私はどうすればよいのか・・・」と叫び嘆いたと言われています。

 

三男の親忠まで行くと、別に四男でも一緒やんってなりそうですし。次男が残っている状態で四男って、誰が聞いても違和感が残ります。

当時20ならば十分に後継者として鍛えなおす事が出来たと思いますが、親子関係等も原因があったと思われます。

この時盛親は12歳、元親が36の時の息子なので可愛かったんでしょうね。

親和の墓は岡豊城の近くにありますが、一族の墓所ではないので、家督争いの遺恨による結果だとも考えられます。

天竺花氏

f:id:mayuchi2014:20180226103922p:plain

f:id:mayuchi2014:20180412125614p:plain

〇 【天竺 花氏】(てんじく はなうじ)

〇  生没年不詳

花氏は土佐大津城主(現在の高知県高知市大津)でした。
長宗我部家の居城岡豊城とは目と鼻の先に合って、大津城からすると岡豊城に見下ろされているような位置にあります。
1547年、岡豊城で再興された「長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)」は、領土を拡大させようと、花氏が居る大津城を攻略し始めます。
花氏も応戦しますが、数で勝る長宗我部軍の前に敗退し、落城してしまいました。
花氏は混乱の中讃岐国香川県)へと落ち延びたと言われていますが、生死も踏まえて不明です。

〇天竺花氏をかんがえる
戦国時代の高知市大津周辺は海であった事から、大津城は水城でした。現在は埋め立てられて平野となっています。
大津城はその後、「一条内政(いちじょうただまさ)」が中村よりこの地に移り住み「大津御所」とよばれるようになります。
大津城跡の山頂には「古城八幡宮」があります。
古城八幡宮の西には「天竺神社」があり花氏を祀っていることから、讃岐に逃げた説は信憑性が余りありませんね・・・
天竺氏は土佐守護代細川一族だと言われています。
守護代とは幕府の直轄領において土地を管理する代官を指す。
土佐国細川氏守護代であり、代々「遠江守(とうとうみのかみ)」を名乗っていた事から「遠州家(とうしゅうけ)」とも呼ばれています。
応仁の乱で東軍大将であった「細川勝元(ほそかわかつもと)」を援護する為に土佐守護代細川勝益は上京します、勝益の後を継いだ政益、その後の国益も大人の乱の混乱によって上京するので、実質守護代不在となってしまいます。天竺氏は室町幕府守護代の後ろ盾を無くした結果となり、その影響力や軍事力は弱体化したと考えられます。
長宗我部からすると近くにいる天竺氏の状況は手を取るように分かっていたと思われますので、標的にされてしまったのでしょうね。

香宗我部康吉

f:id:mayuchi2014:20180226103922p:plain

f:id:mayuchi2014:20180411095800p:plain

〇 【香宗我部康吉】(こうそかべ やすよし)

〇 1544~1619

康吉は土佐国香美郡の「香宗我部秀通(こうそうかべひでみち)」の嫡男として生まれました。
1556年に父が叔父である「親秀(ちかひで)」に暗殺されると一旦母方の里である細川氏に引き取られます。土佐国神田城(こうだじょう)(高知県高知市神田)にて「細川宗桃(ほそかわそうとう)」に養育されますが、叔父であり父を殺した親秀によって呼び戻され、自分が隠居していた土地を与えました。
中山田(高知県香南市中山田)に住みだした康吉は「香宗我部親康(こうそうかべちかやす)」との無益な対立を避けるため、姓を「中山田」に改めました。
その後は香宗我部家の家老として親康とも良好な関係を築いていきます。
親康死後は家督を継いだ貞親(当時若干3歳)の後見人となりました。
関ヶ原において長宗我部家が改易されると、新しく土佐の藩主となった「山内一豊(やまうちかずとよ)」に仕えました。非常に正義感があり、礼儀も良く智勇共に優れていた武将であったと伝わっています。
1619年に死去しました。享年75歳でした。

〇香宗我部康吉をかんがえる

一般的には「中山田康吉」として呼ばれますが、私はあえて香宗我部と書きました。
あまり意味は無いのですが・・・
父を殺した叔父に対しての恨みはどれだけだったか解りませんが、叔父からもらった領地に住む辺り、戦国の世として受け入れていたのかもしれません。
親康自体には恨みはないので良好な関係が築けたのかもしれません。
康吉の性格や能力もあったと思いますが、山内家に仕えてからも重用されました。
父である秀通も有能な武将であったはずなので、元来香宗我部一族の武将としての能力は決して平凡ではなかったのかもしれません。

香宗我部秀通

f:id:mayuchi2014:20180226103922p:plain

f:id:mayuchi2014:20180409182957p:plain

〇 【香宗我部秀通】(こうそかべ ひでみち)

〇 1510~1556

秀通は土佐国香美郡を拠点としていた香宗我部家当主「香宗我部通長(こうそかべみちなが)」の次男として生まれました。
1526年、対立していた安芸氏との戦いにおいて兄「親秀(ひかひで)」の嫡男「秀義(ひでよし)」が討ち死にしてしまうと、兄は戦意を失い、秀通を養子として迎えて家督を継ぎました。
秀通の奮闘も虚しく、香宗我部家を取り巻く環境は厳しく、勢力が衰えていきます。
近隣の長宗我部氏、安芸氏、本山氏等と対等に戦う力はもはや残っていませんでした。
そういった劣勢の状況でも秀通は何とか対抗しようと頑張ります。
しかし、信頼していた兄は秀通に無断で「長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)」と交渉して、国親の三男「親康(ちかやす)」を養子に迎えて勝手に秀通を隠居させようと企てます。
対する秀通は当然猛反対しますが、1556年に暗殺されてしまいました。享年46歳でした。

 

〇香宗我部秀通をかんがえる
兄との関係までは歴史書物に詳しく書かれている訳ではありませんので、定かではありませんが何とも自分勝手な兄に対して不信感を抱いていたと思います。家督を継いだくらいの時はなんとか香宗我部を反映させようと兄と共に頑張ろうとしたはずですが、隠居の身ながら気持ちは当主のままであった兄に翻弄されてしまい、何やら可愛そうな気がします。
男としてのプライドを掛けて長宗我部と対立しようとした矢先の暗殺・・・何とも言えません。
兄は兄で強い想いがあったでしょうが、武家の世においては非常に弱々しい決断ですね。
秀通に殉死した家臣もいた事から秀通自身の人望も信頼もあったと推測されますので、決して弱い武将ではなかったはずです。

香宗我部親秀

f:id:mayuchi2014:20180226103922p:plain

f:id:mayuchi2014:20180406093730p:plain

〇 【香宗我部親秀】(こうそかべ ちかひで)

〇 生没年不詳

親秀は土佐国香美郡「香宗我部通長(こうそかべみちなが)」の嫡男として生まれました。

1526年、親秀は土佐国安芸郡の豪族安芸氏との戦いによって敗北し、嫡男の「秀義(ひでよし)」を失ってしまいました。

戦意を失ってしまった親秀は家督を弟である「秀通(ひでみち)」に譲って、隠居します。

隠居後も香宗我部家は衰退の一途を辿ってしまいます。

1550年代には隣接する豪族「長宗我部氏(ちょうそかべし)」が頭角を現して香宗我部氏の領土を脅かし始めます。親秀は「国親(くにちか)」と交渉し、国親の三男「親康(ちかやす)」を養子に迎え、長宗我部氏と姻戚関係になろうと画策します。

当主である秀通は猛反対します。秀通にはすでに嫡男がおり、養子を迎える必要が無い点、国親を恐れての行為は武人の恥であるとの理由からです。

しかし、1556年親秀はついに秀通を暗殺してしまいます。
そして、1558年半ば強引に親康を養子に迎え跡を継がせました。
その後は、親康の補佐をしたと言われています。

 

〇香宗我部親秀をかんがえる
実の弟を暗殺して無理やり強い長宗我部の下に入る行為は戦乱の世で生き残るためとはいえ、印象は悪いでしょうね。秀通も、まさか兄に暗殺されるとは思っていなかったのかもしれません。
兄弟で考えが違うケースは多々ありますので、秀通からすると「話せば解る関係」と思っていた事でしょうね。
しかし、この親秀の決断は結果として香宗我部家を存続させることに繋がります。
江戸時代に入り、香宗我部直系は途絶えてしまいますが、親康の子供や秀通の息子等はその後も絶えることなく明治維新後まで続いているのを見ると、この選択が全てにおいてダメだったという訳ではないのかもしれません。

香宗我部貞親

f:id:mayuchi2014:20180226103922p:plain

f:id:mayuchi2014:20180405124448p:plain

〇 【香宗我部 貞親】(こうそかべ さだちか)

〇 1591~1660

貞親は「長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)」の弟である「香宗我部親康(こうそかべちかやす)」の次男として生まれました。
1592年、兄が文禄の役で死去し、翌年に父が相次いで死去してしまうと、僅か3歳で家督を継ぎます。
1600年の関ケ原時も9歳なので当然戦においては資料も残っていなく、土佐で静観していたと考えられます。結局運命に従うことになり主家である長宗我部家は改易となり、若くして浪人の身となってしまいます。
一旦は土佐から高野山に向い、高室院(たかむろいん)で暮らしますが、その後堺へと住まいを移します。
そして、浪人の身から士官を志し、肥前国唐津藩主「寺沢広高(てらさわひろたか)」に仕え500石の知行を与えられました。
1614年、従兄弟であり昔の主君であった「長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)」が豊臣家に召し抱えられると、名前を「中原喜左衛門(なかはらきざえもん)」に変えます。
その後、寺沢家を出奔し、浪人に戻ります。
しばらく浪人として過ごしますが、遠縁である「春日局(かすがのつぼね)」からの斡旋により、武蔵国川越藩主「堀田正盛(ほったまさもり)」に1000石で召し抱えられます。
1638年、正盛は10万石に加増されて信濃国松本藩へと転封されますが、これに従います。
さらに1642年には1万石加増されて正盛は下総国佐倉藩に転封されます。
1652年、子宝に恵まれなかった貞親は「高井源左衛門(たかいげんざえもん)」の嫡男「重親(しげちか)」を養子としています。
1660年に死去してしまいます。享年69歳でした。

〇香宗我部貞親をかんがえる
若干3歳で兄や父を失った不運の境遇で、さらに主家の改易、浪人、士官とまさに波乱万丈の生涯を送ったんですね。
寺沢家の出奔についても、大坂の役が原因なのでしょうか・・・真意は解りませんがそんな気もします。
春日局とは遠縁に当たりますが、相当遠いです。

春日局は「斎藤利三(さいとうとしみつ)」でその娘として春日局(福)が生まれています。
利三の兄に「石谷頼辰(いしがいよりとき)」という武将がいます。
で、頼辰の義理の妹が「長井宗我部元親(ちょうそかべもとちか)」の妻です。
貞親からするとお婆ちゃんの実家?縁者になりますね。(春日局もよく貞親を見つけたな・・・)
戦国時代ではどういった縁戚関係になっているか複雑で興味深いですね。
元親は明智光秀と密接にかかわっていたようですので、山﨑の合戦で光秀が勝っていたら元親の立ち位置も変わっていたのかもしれませんね。それに付随するように貞親の人生も・・・
とにかく最後は堀田家で仕事をして大往生(江戸時代で69歳は長生きでしょう)していますから晩年は幸せだったのかもしれませんね。
にしても香宗我部の名前を捨てたのは個人的には残念です。