忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

香宗我部親氏

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〇 【香宗我部親氏】(こうそかべ ちかうじ)

〇 1572~1592

親氏は土佐国長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)」の弟である「香宗我部親康(こうそかべちかやす)」の嫡男として生まれました。
小さな頃から長宗我部家の為に各地で良い働きをしていました。
戸次川にて長宗我部家の後継者である元親の嫡男「信親(のぶちか)」が討ち死にしてしまい、後継者問題で一門衆の多くが粛正されると、親氏は残された一門衆として元親や父、後継者となった「盛親(もりちか)」の代役としての沢山の任務を請け負います。
1592年に勃発した朝鮮出兵文禄の役)でも君主の代わりに出陣して、朝鮮海軍等と奮闘しますが、病死してしまいました。享年20歳でした。

 

〇香宗我部 親氏をかんがえる
生存期間が短かった為か、資料的に乏しい親氏でしたが、もし朝鮮出兵後も元気でいたら、きっと長宗我部の改易も回避できたのではと考えられます。有力な一門衆が殆どいなくなってしまった長宗我部家の舵取り役は「久武親直(ひさたけちかなお)」ですが、この武将のおかげ?で長宗我部家は破滅してしまったのですからね・・・
年齢、経験的に盛親に関ヶ原での決断力は無かったと推測されますので、もし親氏が生きていたら30歳前後、経験も申し分なく、長宗我部家を存続する決断が出来たと思います。
親氏自体に父や叔父(元親)ほどの度量があったかどうかは疑問ですが、親直よりかは私利私欲に走ることなく導けたのではないでしょうか?
親氏の死が原因かは不明ですが、翌年に父である親康も死亡しています。
香宗我部親子の死は晩年の長宗我部家にとって痛恨のダメージであったのは間違いないです。
異説では親氏死去の原因は討死とも言われています。長宗我部家にとって秀吉の戦との相性は最悪なんでしょうね。小田原では活躍したのですが・・・

香宗我部 親泰

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〇 【香宗我部 親泰】(こうそかべ ちかやす)

〇 1543~1593

 親泰は長宗我部 国親の三男として土佐国に生まれました。
1558年には香宗我部親秀の養子となりました。


※長宗我部、香宗我部氏って似てますよね。実は両氏供「曽我部」姓を名乗っていましたが、場所も近くで紛らわいので長宗我部は長岡郡の「長」、香宗我部は香美郡の「香」を頭につけて区別しました。

 

1569年、安芸(今の高知県安芸市)の豪族である安芸国虎を滅ぼし、安芸城主となりました。
その後は兄元親と共に四国統一の為に各地で奮闘します。特に親泰は海部城に拠点を移し、阿波国(今の徳島県)平定で力を発揮します。
同時に各地の大名と外交交渉でも手腕を発揮し、1575年には安土城にて織田信長に謁見しています。
1592年、豊臣秀吉朝鮮出兵文禄の役)において嫡男親氏(ちかうじ)が急死してしまいます。失意の中親泰自身も翌年、1593年に死亡してしまいました。享年50歳

 

〇香宗我部親泰を考える

長宗我部家は割と織田信長徳川家康、秀吉と良好な関係を築いています。当然戦になったケースもありますが・・・
この外交的な役割を担っていたのが親泰です。兄であった吉良親貞死去によって、元親が最も頼りにしていたことでしょう。兄弟だからこそ厳しい意見もいえた関係は、まさに秀吉と弟秀長の関係に近いものがあったと思います。

元親が嫡男信親を失ったときにあえて相続問題に口を挟まなかったのも、元親の心中を誰よりも理解していた為、たとえお家に亀裂が入ろうとも、元親という人間を尊重した結果だと思います・・・

 

井口勘解由

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〇 【井口 勘解由】(いぐち かげゆ)

〇 生年不詳~1560

勘解由は土佐国本山家の家臣であり井口城(現在の高知市井口町)の
城主でした。
長宗我部家から降伏を求められますが、これを拒否します。
長宗我部家臣の「吉田 考頼(よしだ たかより)」に攻められますが、
僅か3百の手勢にて打ち破ります。
しかし、追撃中に敵方の「中野 新八(なかの しんぱち)」に左脇腹を弓で射抜かれて死亡してしまいました。
勘解由が討ち死にした事により井口城兵の士気も下がり、井口城は攻め落とされてしまいました。

〇井口勘解由をかんがえる
無念の死を迎えてしまった勘解由ですが、長井宗我部軍を前に怯まずに抗戦した事で武勇は轟いたでしょうね。
歴史的資料が少なすぎて大したことは言えませんが、新しい情報をゲットしたら、また取り上げていきたい武将の一人です。

 

久武親直

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〇 【久武 親直】(ひさたけ ちかなお)

〇 生没年不詳

親直は長宗我部家臣「久武 昌源(ひさたけ しょうげん?)」の次男として生まれました。
兄は武勇の誉れ高い「親信(ちかのぶ)」です。
1579年、兄親信が岡本城(愛媛県宇和島市三間町)攻撃中に討死すると、その後を継いで
佐川城(高知県高岡郡佐川町甲松尾山)の城主となりました。
1584年には伊予軍代となり、深田城()を陥落させる等の功績を挙げます。
1587年、九州戸次川の戦いにて長宗我部嫡男で世継ぎの「信親(のぶちか)」が討ち死にすると、家中で相続問題が勃発します。親直は「元親(もとちか)」の意向に従い、四男千熊丸(後の盛親)を
推します。

これに対して一門で重臣の「吉良 親実(きら ちかしげ)」や「比江山 親興(ひえやま ちかおき)」は次男「親和(ちかかず)」を推して対立します。
親直は元親に対して、反対派を陥れるような作り話や悪い噂を話します。
激高した元親は反対派の家臣を粛正しました。
その後は家中において筆頭となり、実権を握ります。
1600年、関ケ原にて当主「盛親(もりちか)」が西軍に与し敗退すると家康に助命嘆願を求める旨を盛親に勧めます。しかし、同時に日ごろから疎ましく思っていた元親の三男「津野 親忠(つの ちかさだ)」が土佐半国を狙っている等と讒言(ざんげん)し、親忠を殺害してしまいます。
盛親は家康から兄殺しの件について咎められ、とうとう改易となってしまいました。
主家が改易となると、親直は肥後国熊本藩の「加藤 清正(かとう きよまさ)」に仕えますが、その後の詳しい資料はありません。あまり重用はされなかったのでしょうか・・・死亡年も不明です。

 

〇久武親直を考える

親直を調べると真っ先に出てくるキーワードが『奸臣(かんしん)』です。
聞きなれない言葉ですが、意味は「よこしまで腹黒い家臣」であり、能力も無いのに役職について家を存亡の危機、もしくは本当に滅亡させる要因を作った家臣を指す用語です。
何が奸臣なのか?と疑問に思うかもしれません。

資料によると、そもそも兄である親信は弟の性格や能力を良く解っていたようで、死の間際元親に対して

「彦七(親直のこと)は腹黒くあさましき男ゆえ、必ずや御家の災いとなりましょう。決して私の後を継がずお取り立ても召さるべからず。」

と遺言します。
しかし、どういう経緯か不明ですが、元親は家督を継がせ、側近として重用してしまいます。
性格的に元親と合ったのか、よほどべんちゃらが得意だったのか真意は解りません。
親直は自分に対して邪魔をする他の家臣たちをどんどん排除していったと言います。
得意技は「讒言(ざんげん)」相手を陥れるような悪い噂を主君に吹聴する必殺技です。
長宗我部の家臣はあまり切れ者が居なかったようなので、親直からしたら楽しいくらい自分の思い通りになったようです。
それが、最後にとんでもない悲劇を生んでしまう事になろうとは・・・
盛親からしても、父が見込んだ重臣だったので、あまり逆らえなかったと思われます。
兄の件についても、盛親自体は親直の讒言を信じず、兄に限ってそのようなことは無いと思っていた矢先。
親直が勝手に盛親の命であると嘘をついて親忠に迫ったという話もあります。

 

結局倒産した会社(長宗我部)から別会社(加藤)に移ってみたものの、元来能力が無かったので、歴史自体から抹消されてしまったんでしょうかね・・・
かろうじて息子はそのまま新しい肥後藩細川家に仕えたという資料はあるみたいです。

久武親信

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〇 【久武 親信】(ひさたけ ちかのぶ)

〇 生年不詳~1579

親信は長宗我部家臣「久武 昌源(ひさたけ しょうげん?)」の長男として生まれました。
1575年に起きた「四万十川しまんとがわ)の戦い」では「吉良 親貞(きら ちかさだ)」と共に先陣を任されています。
誠実で勇猛果敢な性格から元親から特に信頼され、佐川城(高知県高岡郡佐川町甲松尾山)の城主となります。
その後も数々の戦で武功を挙げ、長宗我部家の南伊予攻略を任せられます。
伊予軍代となった親信は、怒涛の進撃を開始します。
元親からは


「伊予攻略に関しては万事お主に任せる故、我への相談は一切無用とせよ」

と言われる程でした。
1579年岡本城(愛媛県宇和島市三間町)の攻撃中、城主「土居 清良(どい きよよし)」の奇略に遭い、討死してしまいます。


岡本城周辺の地形を熟知できていなかった親信は、清良によって誘導され、狭く入り組んだ道に軍を進めてしまいました。結果として思うように身動きを取れなくなった兵に対して戸惑っている間に清良の鉄砲隊によって銃撃されてしまいました。数の上では圧倒していた相手だった為に、まさかの敗北でした。

 

〇久武親信をかんがえる

家中でも筋金入りの誠実さであった親信は、元親から絶対の信頼を受けていたと思われます。
親貞が死去した後、伊予攻略の軍代として戦のすべてを任せられる程信頼されている家臣は他にいませんでした。
なぜ、こんなにも信頼していた親信の遺言「彦七(親直)を登用するな」を元親は守ってくれなかったのでしょうか???
もしかしたら、親信の弟だからきっと大丈夫だと思ったのかもしれませんね。

また有馬温泉で「羽柴秀吉(はしばひでよし)」と出会い、意気投合したという話も残っています。
そこで親信は秀吉の力量を見抜いたと言われます。

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秀吉は有馬温泉大好きだったらしいので、分かるんですが、親信がなぜ有馬温泉に出向いたのか?そもそもそんな時間があったのかについては少々の疑問はありますが、行くのは自由ですからね(笑)

もし、親信が四国征伐まで生き残っていたら、秀吉との交渉は上手くいったのかもしれません。

 

吉田重親

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〇 【吉田 重親】(よしだ しげちか)

〇 生年不詳~1615

重親は長宗我部家臣「吉田 貞重(よしだ さだしげ)」の長男として生まれました。
お爺ちゃんは「吉田 考頼(よしだ たかより)」です。
1600年、関ケ原の戦いにて長宗我部家が改易されると、そのまま浪人となりました。
その後讃岐国高松藩生駒家に士官しますが1614年、大坂の陣が勃発すると重親は「長宗我部 盛親(ちょうそかべ もりちか)」
の下へ参陣し、共に再起をかけて徳川と戦う道を選びました。
1615年、八尾・若江の戦いにおいては、先陣として出陣するが、次第に劣勢となり最後は討死してしまいました。

 

〇吉田重親をかんがえる。
大坂の陣で、盛親が挙兵したと耳にした重親の心中はいかばかりだったでしょうか。
士官先の生駒家を出奔して盛親に従った選択をする辺り、忠誠心なのか功名心なのか計り知れない所もあります。
重親自身、長宗我部家の改易に不満があった点も大いに推測できます。
八尾にある高塚地蔵(八尾市泉町1丁目)のお堂から槍を持って飛び出し、「藤堂 家信(とうどう いえのぶ)」に襲い掛かりましたが、逆に返り討ちされてしまったという伝承が残っています。

吉田貞重

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〇 【吉田 貞重】(よしだ さだしげ)

〇 生没年不詳

貞重は長宗我部家臣「吉田 考頼(よしだ たかより)」の長男として生まれました。
父と共に元親を助けて武功を挙げます。
1569年、「安芸国虎(あき くにとら)」との戦い(八流れの戦い:やながれのたたかい)にて、左目を槍で突かれ重傷を負ってしまいます。
かろうじて命はとりとめますが、隻眼となってしまいました。
その後も変わらぬ戦働きをして、元親の四国制覇に貢献しました。
1600年、関ケ原の戦いにて長宗我部家が改易となると、浦戸一揆が起こりました。
重臣たちが一揆を支持するか否定するかの議論では、貞重の強い意見により、鎮圧することに決まりました。
浦戸城の開城を勧め、山内家を迎え入れると、その後は山内家ではなく信濃国高遠藩保科家に250石で仕えました。

〇吉田貞重をかんがえる

父の代からずっと長宗我部に忠誠を誓っていた貞重がなぜ浦戸一揆を否定したのでしょうか。
それは、「盛親(もりちか)」が兄である「津野 親忠(つの ちかさだ)」を結果的に殺害してしまった事に対する
反感からであったと言われています。いくら主家でも、人道に外れた行為をした主君に対しては許せないものがあったのでしょうね。
貞重は囲碁の名手であったという逸話もあります。「せんの次郎左衛門」という渾名(あだな)を付けられる程でした。