池頼和
〇 【池頼和】(いけ よりかず)
〇 生年不詳~1593
頼和は土佐国長岡郡池城主であった「池頼定(いけよりさだ)」の嫡男として生まれました。
父はは土佐細川家「細川宗桃(ほそかわそうとう)」の息子なので、血統は細川氏になります。
1547年、長宗我部氏から攻撃されると初めは抵抗していましたが、
「中嶋大和守(なかじま やまとのかみ)」の計略で、一族の「池万五郎(いけ まんごろう)」が寝返ります。長宗我部当主「国親(くにちか)」の娘を娶って姻戚関係となりました。
長宗我部氏の一門衆となった後は水軍の長を務めて堺との交易によって財政面で長宗我部氏を助けます。
その後妻との仲が悪くなると、妻の弟である「元親(もとちか)」から謀反の疑いをかけられて、失意の中1593年、切腹させられてしまいました。
〇池頼和をかんがえる
浦戸や種﨑周辺を治めていた池氏は、古くから浦戸の港の影響で財政的に潤っていました。
長宗我部がこの場所を抑えたことによって多大な恩恵が長宗我部氏に注がれたと思われます。
滅ぼすよりも一族にしてしまうほうがメリットが高かったのでしょうね。
一族の「池六右衛門(いけろくえもん)」は小田原の役で軍艦「大黒丸(だいこくまる)」を
操り武功を挙げています。
大黒丸については次のような資料があります。
●大黒丸は戦国時代に多く作られていた軍船「安宅船(あたけぶね)」だった。
●大きさは「18反帆」
「反帆(たんほ)」とは帆船の大きさを示す値で、1反が、大体3尺(90cm)で、これを並べた
数が反帆らしいですので、90×18=1620cm(16m)くらいの帆が必要なくらいの船と考えましょう。
●船大将(船長)は「池六右衛門」
●漕ぎ手が200人
●大砲2門
●鉄砲200挺
結構な規模の軍船を持っていたんですね。
土佐水軍をはじめとする「豊臣水軍」は海上から北条家の城を砲撃する等の大活躍を見せます。
秀吉から大いに称賛された元親は、六右衛門に褒美として胴服と小袖を、兵たちには金300貫が与えられました。