忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

高石左馬助

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〇 【高石左馬助】(たかいし さまのすけ)

〇 生没年不詳

左馬助は長井宗我部家の一両具足でした。一両具足とは半農半兵なので、明確な家臣ではないが、長宗我部に従う武装集団的な
存在です。
土佐国長岡にて80石ほどの知行をもらい、後は本山郷に500石ほどの領地を治めていました。
1600年、関ケ原の戦いにて主家が改易となると、左馬助は新領主となった「山内家(やまうちけ)」に対して反抗します。
山内一豊(やまうち かずとよ)」が土佐国を与えられ、1603年に入封(にゅうほう)すると、左馬助は年貢上納を拒否滞納
し続けます。山内家家老であった「永原 一照(ながはら かつあき)」は再三に渡り左馬助に年貢を納めるよう説得しますが、
左馬助は
「凶作であるので納める米がございません。」
と周りの百姓達も扇動する始末でした。
一照は百姓たちから人質を取って年貢上納の命令を下しますが、百姓たちは左馬助怖さに結局年貢を納めませんでした。
一照が左馬助を本山土居にて詰問しますが、
「そもそも豊凶においては天が決めること、すなわち神の考えである。おろかな人智ではどうする事もできません。土佐山内家においては
我らに対しての慈悲も無く、刀馬の力にて貧しく悲しき者から召し取るおつもりなれど、天の定めたる米の量を増やす術などあるはずも無く、
上納いたしたくとも米がござらぬ。もし上納を迫るのであれば、まずは天におわす天照に対して戦を仕掛け、見事打ち負かした後、
豊作となりし本山の田畑から存分に年貢をお取りくださいませ。」
と言い逃れする始末です。
いよいよ武力をもって攻め寄せて来る事を予期した左馬助は、すぐさま、弟「吉之助(きちのすけ)」や百姓どもを徴収し、北山の滝山に籠りました。その数およそ100名。
一照は「井口 惣左衛門(いぐち そうえもん)」を物見に出したが、不穏な動きありとすぐさま報告します。
10名の配下を連れて滝山に向かった一照に、鉄砲で威嚇します。
翌日には配下を30名に増やし、討伐を開始します。
滝山は天然の要害であり、にらみ合いが続きます。一照は高知に伝令を出します。
報告を受けた山内家では評定を開き武力をもって一揆を鎮圧する事を許す藩命が下りました。

滝山へと続く道は一つしかなく、しかも狭く左右の山から標的にされてしまいます。一揆勢は鉄砲や投石による攻撃で、応戦します。
一照は針窪山から大筒を使って砲撃すると、驚いた百姓たちの戦意は喪失し、5日に及ぶ「滝山一揆」は集結します。
左馬助は集めた百姓たちを見捨ててすぐさま逃亡し、土佐国瓜生野より讃岐国へと逃れました。
その後の行方は分かっていません。
滝山周辺のほとんどの百姓たちは、左馬助と共に一揆に参加していたので、鎮圧後も刑罰を恐れて引き続き山に隠れていました。
「豊永 五郎衛門(とみなが ごろうえもん)」はこのままでは村々の田畑が荒廃する事を懸念し、
一照に一揆に加勢した百姓たちに対しての罪を不問に伏す事を嘆願し、何とか百姓たちは村に帰ることができました。