忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

久武親信

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〇 【久武 親信】(ひさたけ ちかのぶ)

〇 生年不詳~1579

親信は長宗我部家臣「久武 昌源(ひさたけ しょうげん?)」の長男として生まれました。
1575年に起きた「四万十川しまんとがわ)の戦い」では「吉良 親貞(きら ちかさだ)」と共に先陣を任されています。
誠実で勇猛果敢な性格から元親から特に信頼され、佐川城(高知県高岡郡佐川町甲松尾山)の城主となります。
その後も数々の戦で武功を挙げ、長宗我部家の南伊予攻略を任せられます。
伊予軍代となった親信は、怒涛の進撃を開始します。
元親からは


「伊予攻略に関しては万事お主に任せる故、我への相談は一切無用とせよ」

と言われる程でした。
1579年岡本城(愛媛県宇和島市三間町)の攻撃中、城主「土居 清良(どい きよよし)」の奇略に遭い、討死してしまいます。


岡本城周辺の地形を熟知できていなかった親信は、清良によって誘導され、狭く入り組んだ道に軍を進めてしまいました。結果として思うように身動きを取れなくなった兵に対して戸惑っている間に清良の鉄砲隊によって銃撃されてしまいました。数の上では圧倒していた相手だった為に、まさかの敗北でした。

 

〇久武親信をかんがえる

家中でも筋金入りの誠実さであった親信は、元親から絶対の信頼を受けていたと思われます。
親貞が死去した後、伊予攻略の軍代として戦のすべてを任せられる程信頼されている家臣は他にいませんでした。
なぜ、こんなにも信頼していた親信の遺言「彦七(親直)を登用するな」を元親は守ってくれなかったのでしょうか???
もしかしたら、親信の弟だからきっと大丈夫だと思ったのかもしれませんね。

また有馬温泉で「羽柴秀吉(はしばひでよし)」と出会い、意気投合したという話も残っています。
そこで親信は秀吉の力量を見抜いたと言われます。

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秀吉は有馬温泉大好きだったらしいので、分かるんですが、親信がなぜ有馬温泉に出向いたのか?そもそもそんな時間があったのかについては少々の疑問はありますが、行くのは自由ですからね(笑)

もし、親信が四国征伐まで生き残っていたら、秀吉との交渉は上手くいったのかもしれません。