忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

谷 忠澄

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〇 谷 忠兵衛 忠澄(たに ちゅうべえ ただずみ)

〇 1534~1600

 

 忠澄は土佐国の長宗我部家臣で、元は土佐神社高知県高知市一宮)の神主であったが、元親から信頼されて、岡豊城へ迎えられて家老職に就きました。
 1584年豊臣秀吉四国征伐が始まります。当初は何とか和睦をするべく、忠澄は秀吉の元へ出向き領土について安堵してもらうために交渉します。なんとか伊予と土佐(愛媛と高知)に2ヵ国は安堵される話まで持って行けましたが、最終的に交渉は決別、秀吉は四国征伐を決定します。
 1585年、秀吉は弟である豊臣秀長を総大将として一気に四国に攻め込みます。忠澄は最前線である阿波国一宮城(今の徳島市一宮町)に籠城し、なんとか持ちこたえます。
しかし、数で圧倒する豊臣軍に包囲され、開城を余儀なくされてしまいました。
 その後忠澄は白池城(今の徳島県三次市池田町)に帰還します。すぐさま元親に対して降伏を勧めます。元親は激怒し、断固として降伏を受け入れませんでした。しかも忠澄に対して「切腹せよ」と言う始末です。
 他の家臣たちは豊臣軍と討死するまで戦う覚悟を持ちましたが、忠澄は怒る元親の前に一歩も引かず、重臣達と連名で降伏を再三に渡って直訴します。とうとう元親も降伏する事に決めました。

 1586年、長井宗我部が九州征伐に参加すると、忠親も参陣します。戸次川の戦いでは討死してしまった長宗我部信親の遺体を島津氏から返してもらう交渉を見事に達成します。九州より帰還した後は中村城(今の高知県四万十市中村)の城代となりました。
1600年、同地にて病死してしまいます。享年67歳

 

〇谷 忠澄をかんがえる。

 

 元々神主だった所を元親に認められて家臣へと取り立てられるくらい、才能にあふれていた若者だったのでしょうね。その手腕は大いに長宗我部家の四国統一に貢献したことでしょう。
 もし、忠澄が命がけで元親を説得しなかったら、四国征伐で長井宗我部元親以下ことごとく討死して、早々に滅亡していたと考えられます。
 冷静に敵の戦力を分析し、勝ち目が無い相手とは無理に戦わないという考え、逆に勇気がいると思います。

 戸次川では、交戦中の相手の所に出向く事自体、自殺行為ですね。いつ殺されてもいたしかたない状態で、しかも相手からすると大手柄の長宗我部嫡男の首ですからね。
しかし、敵方の新納忠元(にいろ ただもと)という武将が非常に男気があり、その話を聞いて元親の気持ちを考えると涙が止まらないと言って敵である信親の遺体を丁重に火葬し、岡豊城に届けたといいますから、
何とも言えない気持ちになりますね。最後は元親の後を追うように死去するあたりもまさしく元親と共に生きた人生だと言えるんではないでしょうか。

久万兵庫

 

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〇 【久万兵庫(くまひょうご)】

〇 生没年不詳

 

兵庫は土佐国長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)」の家臣です。
父は「久万俊宗(くまとしむね)」といいます。(一説では弟であるとも言われています。)
兵庫は通称です。名前は「俊政(としまさ)」になります。

1573年、土佐に「小島源蔵(こじまげんぞう)」と呼ばれる有名な関取がやってきました。
元々超相撲好きな元親はさっそく、源蔵を呼びます。
小島源蔵は全国を修行して相撲道を極めていました。身長は6尺5寸(約2メートル)で、巨漢。当然の如く負けなしでした。

元親は源蔵を見て愕然としました。年は30手前ですが、風貌は40を超えているようでして、源蔵は元親に対して自信満々な態度で
「私の力は150人力を誇りますよ」

と言い放ちます。
せっかく土佐に来てもらったのに、相手をする者がいないでは長宗我部家の恥辱にあたると、家臣たちから力自慢を集めました。
「戸波親武(へわちかたけ)」や「江村小備後(えむらこびんご)」等長宗我部自慢の豪傑が集結します。
協議した結果「親武こそが相手にふさわしい」となりました。
しかし、親武は
「私が万が一負けたら長宗我部の名を汚してしまいますれば・・・」

と辞退してしまいました。

弱った様子の元親の前に久万兵庫が歩み出て、志願します。

喜んだ元親は行事として「福留隼人(ふくどめはやと)」を務めさせると、源蔵対兵庫の相撲大一番が始まりました。
噂を聞いて近隣から見物人が押し寄せます。
風貌はまるで大人と子供程であり、見物人たちは「これは勝負にならない」とぼやきます。
しかし、大勝負が始まると兵庫は猛進してくる源蔵をひらりと交わすと、周囲をくるくると回り始めます。
翻弄される源蔵の両手首をつかむと、回しをつかんで一気に源蔵を突き飛ばしました。
見物人は歓声を上げて、老若男女みな大興奮。
元親も立ち上がって拍手して両名を称えてそれぞれに褒美をあたえました。
翌日、兵庫は元親から
「比類なき高名、よくぞ家の面目を保った。源蔵に勝ったからには兵庫こそが相撲日本一である。しかし、本日から相撲を取ることは禁止する」

と言って知行を加増しました。
この話以外で特に兵庫が登場する書物が発見されていないのでこの後どうなったか等は不明です。

 

○久万兵庫をかんがえる
兵庫よりも源蔵の風貌に驚かされますよね。当時の日本人の平均身長は大体140~150くらいとのことなので、異例中の異例。

まさに巨人に見えた事でしょうね。本当だとしたらこんな大男を取り立てない大名たちはどうしてたんでしょう?
士官を断り続けて、ひたすらに相撲道に打ち込んだのでしょうかね。
戦国時代は戦ばかりが注目されますが、様々な文化人やスポーツ選手?がいる点においては現在と同じような状態だったと思います。
兵庫は一世一代の賭けをしたのかもしれません。居並ぶ者たちがやりたがらない役目を「我こそは」と名乗る辺り、度胸も据わっていたんでしょうね。
場面は違いますが墨俣一夜城の「木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)」の話を思い出してしまいます。

長宗我部阿古

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〇 長宗我部 阿古(ちょうそかべ あこ)姫

〇 生年不詳~1653

 

阿古姫は「長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)」の娘として生まれました。
長男「信親(のぶちか)」から数えて7人目の子供で、「盛親(もりちか)」の妹になります。
かつての宿敵であった佐竹家の当主「佐竹 親直(さたけ ちかなお)」に嫁いで二人の男の子を産みます。
1615年、大坂の陣で兄盛親や夫と共に大坂城へ入城しますが、豊臣方は滅び、兄は斬首、夫は討死してしまいました。
阿古姫は大坂城から落ち延びて、二人の息子と共に仙台藩、「伊達 政宗(だて まさむね)」の兵によって捕らえられてしまいました。
長宗我部一門である事から斬首は免れないと思っていましたが、政宗の判断により助命されます。
その後、伊達家の次女として召し抱えられ「中将(ちゅうしょう)」と呼ばれるようになります。
阿古姫は元親の娘であった為、教養も非常に豊かであり、弁も立ったので、政宗からも信頼され、近侍(きんじ)として長年仕えました。
近侍とは、主君のお側に仕える立場の人。

〇阿古姫をかんがえる
大坂城の落城時には、阿古姫も覚悟を決めていたことでしょう。しかし、伊達政宗の器量は立派ですね。下手したら幕府に背いた事を
咎められるかもしれません。なにせ盛親の一門なんですからね。いくら政宗でも徳川は恐い存在だったに違いありませんから。
命拾いした阿古姫でしたが、二人の息子も小姓として取り立てられて、出世します。
初めは故郷である上ノ加江(高知県高岡郡)から「賀江(かえ)」姓を称し、それぞれ、蔵人、忠次郎と名乗りましたが。
上ノ加江とは阿古姫の嫁ぎ先である佐竹家の領地(上ノ加江城)ですので、その土地名を由来としました。
後に長男は「五十嵐 元成(いがらし もとなり)」次男は「柴田 朝意(しばた とももと)」と名乗るようになりました。
五十嵐とは伊達家の重臣であった五十嵐家の名跡を継ぐよう命じられます。
柴田とは米倉城城主であった「柴田 宗朝(しばた むねとも)」の養子に迎えられて柴田を名乗りました。
当初は名前も「朝親(とももと)」という漢字「親」は元親の「親」でした。

 

【楠と八幡大菩薩】

天文13年(1544年)如月の子の刻(0時~2時頃)
岡豊城中にある楠の巨木が突如轟音と共に倒れた。
この楠周囲は一丈(約3m)高さは十丈を越える大きさであった。

岡豊城主長宗我部信濃守(国親)はさっそく城下にいた池澤と名乗る天文に明るい卜者よ呼び寄せた。

「此度の事吉凶いかなるか?」
と国親は尋ねた。

池澤は怪しげな儀式を行うと
「まず楠とは木つまり東と南が合わさりし文字でございます。
つまりこの地より東南の大家が滅びる事を予期したる証なり。
天運これに定まりしとのお告げに間違いありませぬ。」
と自信満々に話した。

この言葉にカラカラと笑い上機嫌となった国親は池澤に褒美を
与えると城中に集まった群衆に対してこう話した。

「これは誠に喜ばしい限り也。此疑心露ほども無く八幡大菩薩による
吉報であると我確信したり。」

国親は吉日良辰(きちにちりょうしん)に八幡宮(岡豊別宮八幡)にて
臨時の祭礼を盛大に挙行した。
長宗我部の家臣を始め、岡豊周辺の民衆が噂を聞き八幡宮に押し寄せた。
神楽を奉納していた際、群衆の中にいた童が突然奇声を発すると全身を震わせながら何度も跳ね上がり、猿の如き速さにて社殿に駆け上がった。目を大きく見開き国親らをギロリとにらみつけると
童からは到底発することのできない程恐ろしい声でこう叫んだ。
「我八幡大菩薩也。己らの信仰誠に持ってめでたい限りかな・・・」
そういうと童は踊りながらズズッと国親の前にと進み、仁王立ちして見下ろしながら
「おまん!うぬは事あるごとに父の無念を晴らす事のみを考えておる。
この不動の如き怒り、我心底より不憫に思おうておる・・・」
人間が限界まで流せるよりも遥かに大量で大粒の涙を流しながら童はさらに国親を睨みつけながら
「我の思いを見事に察したおまんは本に天晴天晴なり。
国親よ!!まずは南方より四方に向けはよう馬をだせ!
はようはよう!急がぬか!はようはよう!!その軍には我の加護が付いておる。頼もしく思い思うままに進めよ!きやぁ~ッ!!!」
童は手を大きく振り回しながら国親以下長宗我部家臣達の周りを走り抜けると
気が抜けたようにぱたりと倒れ込んだ。

しばらく、動かなかった童だが突如むくッと起き上がると目を丸くして驚いた。
童に問いただしてみたが全く覚えていなかった。

しばらくの沈黙が続き、その場に居合わせた者達がザワザワとし始めると、
国親歓喜余って天を仰ぎ涙を流しながら。
「なんともめでたきお告げであろうか・・・この国親
一部の迷いも無くただ己の信念を貫かん!!」

こうして、長宗我部の領土拡大が開始された。

【弟よりの刺客】ー津野親忠ー

1600年(慶長5年)関ヶ原での敗北から土佐に戻った長宗我部盛親は、
井伊直政よりの助言もあり、家臣たちを集めて大坂にて内府(徳川家康)に謝罪すべく
上坂について相談した。

「成り行きとはいえ、この度の事は致し方ない事である。今は一刻も早く大坂に上る必要がある。
また、大勢を引き連れていくのも印象が良くない。士80、兵180程とし、日限は10月1日とする」
概ねこのような事柄が決定し、皆々準備に取り掛かろうとした所で久武親直が歩み出てきた。

久武内蔵助親直は父元親の時代よりの重臣であった。
「上坂の儀、御意に存じ上げますが、その前に土佐にて行わなければならない事あり。」
と頭を下げた。
「内蔵助、我がなすべき事とは何ぞや」
盛親が聞くと親直は上目遣いに
「津野殿の御処分にござりまする。」
盛親はしばらく上を向いて考えたが頭をかしげて
「兄上が何ぞしたか」
と問うと、親直は
「津野殿は藤堂和泉守殿と御入魂であり、此度の件で土佐を御屋形様と津野殿で折半せよと取持ちされるに相違ございませぬ。まずは津野殿を亡き者とされ、後顧の憂いを無くされるが良策なり。」

話を聞いた盛親は顔を真っ赤にして親直を睨みつけ
「これはこれは、到底内蔵助の考えとは思えない愚策なり。
我が兄を殺してまで今の身を守ろうなどとはこの盛親、露にも思っておらぬわ。
此度の謝罪はただただこの盛親の不徳が招いた結果であり、公議よりの御赦免今と変わらず安堵とするは難解この上なし。
さらに我が兄を保身のために殺害したとあらば内府殿も我を生かして置くはずもなし」
と怒鳴って退座した。
その夜内蔵助は自宅で思案していた。
「盛親様は事の深刻さを理解成されておらぬか、若い故無理もない。
しかし、此度の進言は必ず津野殿の耳にも入る。そうなれば恨まれる事になるは必定なり。
我が立場も危うくなるのぉ。こうなれば密かに刺客を差し向け、盛親様には兄上は弟の身を
案じて自ら命を絶った事にすれば良い。」
と早速兼ねてより入魂であった津野藤蔵(つのとうぞう)に計画を話した。
賛同した藤蔵と二人で実行に移した。
まず盛親よりの使いを装って津野親忠の元へと遣わした。
使者は親忠に向かって
「御屋形様より津野様へ、関ヶ原での一件についてご相談されたいので赤岡まで急ぎ御足労願いたし」
と伝えた。
それを聞いた親忠はすっかり騙されて
「あい分かった、今こそ御家の一大事なり。この親忠、心底より手助け致さん。」
と急いで準備をし、赤岡へと向かった。
物部川のあたりで、再び使いが参り、
「一旦岩村の吉祥寺にて休息を取られよ」という事だった。
親忠はその言葉に従って吉祥寺に入った。

一行がしばし休息を取っていると突如親直と藤蔵が兵数百を引き連れて寺を取り囲んだ。
その音を聞いた親忠は寺の障子を空け
「内蔵助、これは何事ぞ!!」と叫んだ。

親直は抜いた刀を背中に隠すと跪き、
「御屋形様よりの命でこの久武内蔵助、津野様の最期を見届けに参りました。潔く御腹を召されませ。
解釈は不肖彦作が相務めまする。」

津野親忠はこの状況でも慌てず、親直を睨みつけながら
「その命は真に盛親が下したのか。甚だ疑念が残るが逆ろうた所で我を含め、この寺にいる全ての者を殺す気であろう。
されど、我に何の罪があるのか・・・
真意はどうであれ、実兄であるこの儂を殺して内府殿に謝罪しても赦免されるとは
到底思えぬがな。このような所業をすると長宗我部は家ごと潰されてしまうぞ。」

そう言うと、腹に脇差を突き立てようとした。
側の家来がその手を掴み。
「なりませぬ親忠様!御腹を召される必要など全くございませぬ。ここはこの卑しい裏切り者共を蹴散らして浦戸に出向き、
盛親様に真意をお確かめ下さるべし!」

と止めたが、静かにその手を外した親忠は
「お主らの言上最もなれど、この状況では間違いなく我らは皆殺しである。神妙なる志ではあるが、我が腹を切る以外
お前たちが助かる道は無し、我の分まで生きて親兄弟を大切にし、妻子を養ってやるがよかろう。」

と家来達に話をすると。再び親直らを睨みつけ
「内蔵助。我が腹を切ればこの者たちは見逃す旨努々(ゆめゆめ)忘るべからず。もちろんこの事は他言無用の事とする。」
親直は
「畏まって候。」
その言葉を聞いた親忠はニヤリと笑って。
「内蔵助、とくと我の最期を見届けよ!!」
そう叫ぶと腹を十文字に掻っ切った。
内蔵助が介錯の為親忠に歩み寄ろうとすると、親忠の家来達が行く手を阻んだ。

そして、郎党の久松源蔵が
「汚らわしいお主らに親忠様の介錯など決してさせぬ!この源蔵にお任せくだされ。」
そういうと苦しむ親忠を見事に介錯した。

そして、その解釈した刀を持ち換え、そのまま自分の喉に突き立てて主君親忠に覆いかぶさるように
うち重なって死んだ。

それを見た親直は眉一つ動かさず。
「残りの者も親忠殿の元に参るがよい。」
そういうと静かに手を挙げた。
その合図で周りの兵士が一斉に親忠の家来たちに襲い掛かり、皆殺しとなった。

後日内蔵助は盛親に嘘の報告をした。
びっくりした盛親は
「何と!?兄上が我の身を案じて切腹あそばれただと・・・」
と親直を問い詰めた。
「はい、間違いござりませぬ。津野殿の家臣も殉死なされました。」
しばらく考え込んだ盛親だったが、
「これはなんとしたことぞ・・・あの冷静な兄上がこのような所業なされるとは到底思えぬが、こうなっては
致し方ない。予定通り大坂に向かう。」

【長宗我部盛親列伝 -20-】

盛親の子供たちの処遇だが、
長男盛恒(もりつね)は父と共に大坂の陣に参戦し、最期は父盛親と共に斬首された。盛恒の息子盛胤(盛親の孫)もまた、六条河原にて父、祖父と共に斬首された。

※この盛恒、記録が乏しいが大坂の陣時点での年齢を推測してみよう。
父盛親が死去した時の年齢は41歳
生まれた年が1575年なので
1615-1575=40となる。誕生日の関係などから41歳でもつじつまが通る。
盛親が家督争いで兄信親の娘と結婚した時期が1587年頃であり、
1587年に婚姻したとすると
1587-1575=12歳。辛うじて子供が産める年齢ではある。
一般的な日本人の精通時期は13歳前後である。(戦国時代と現在は違うかもしれないが・・・)

では結婚相手信親の娘はどうだろう。
兄信親が戸次川で討死したのが1587年
生まれた年が1565年なので
1587-1565=22歳
精通が13歳だと仮定すると最も早く生まれて信親が14歳の時(出産までの時間がある為)
よって信親娘は1587年時点で
22-13=9歳
一般的な日本人の初潮が10~13歳頃なので、仮に10歳で初潮を迎えたとすると
最短で長宗我部盛恒は1589年生まれとなる。
つまり死去したのが1615年なので
1615-1589=26歳となる。
当然前後はすると思うがどちらにしても若武者であった事は確かであろう。


次男盛高(もりたか)、三男盛信(もりのぶ)は土佐に逃げ帰ったが、山内家によって発見されて処刑された。
四男盛定(もりさだ)五男は京都でとらえられてことごとく処刑された。


徳川幕府は長宗我部一族を根絶やしにし、長宗我部は完全に滅亡しのだが、
近年長宗我部の子孫(直系)と称する方が現れている事もあり、徳川の残党狩りから
逃れた盛親直系の人物がいたと思われるが・・・真相は・・・

【長宗我部盛親列伝 -19-】

慶長20年(1615年)5月7日
若江・八尾の戦いの翌日に行われた天王寺・岡山の戦いは大坂夏の陣においての最終決戦となった。

しかし、先日の藤堂勢との戦にて再起不能状態であった長宗我部勢は参戦する事が出来なかった。


勝敗は豊臣軍の大敗北に終わる。

同日の夕刻(16時頃)には大坂城に火の手が上がった。
合戦は正午から始まったと記録にあるので、僅か3時間ほどで雌雄が決せられたのだ。
関ヶ原と少し状況は違うが、再び雌雄を決する戦いに参戦できずに盛親は敗戦の将となってしまった。


盛親は再起を願って大坂城から逃走した。
5月11日、京都八幡橋本近くの葦林に潜んでいた所を、蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)家臣長坂三郎左衛門(ながさかさぶろうざえもん)に捕らえられた。
盛親は伏見に送られ京都を引廻され5月15日に京都六条河原にて斬首の刑に処された。
享年41歳であった。
元大名であった盛親に対して徳川が下したのは切腹ではなく斬首であった。
斬首とは罪人に対する処刑法である。

遺骸は京都蓮光寺に葬られた。