【長宗我部盛親列伝 -17-】
大坂夏の陣において、盛親は大坂城東側の河内方面から向かってくる藤堂高虎や井伊直孝など徳川勢55000の抑えとして出陣した。
先方は木村重成6000、その後すぐに長宗我部盛親と増田盛次5300が出陣した。
木村重成は今福方面を視察して幕府軍が攻めてこないと考えて、家康秀忠の軍勢の側面を攻撃できる若江に進軍した。
幕府軍の藤堂良勝は物見にて木村重成ら豊臣軍が若江に向かう姿を捉えた。
良勝は攻撃命令を発した。
その一方八尾方面の萱振(かやふり)にいた長宗我部勢の先鋒吉田内匠重親は
藤堂勢の藤堂高吉に攻められた。
重親はよく藤堂勢と戦ったが部隊に鉄砲隊が居なかった為に藤堂の鉄砲隊
の的にされて散々打たれに打たれた末討死した。
盛親は重親の報告を受けた際に困惑してしまう。
藤堂高虎とは関ケ原以前より親しい間柄であり、藤堂の家臣には旧長宗我部家臣達が
沢山雇用されていたのだ。
しかし、戦においては致し方なく、盛親は藤堂勢への備えを取り、
長瀬川にて迎撃(げいげき)態勢をとった。