忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

【長宗我部盛親列伝 -14-】

大坂では秀頼から手厚く出迎えられ、盛親は浪人衆の中でも「五人衆」と呼ばれ優遇される。
五人衆は以下の五人

長宗我部盛親
毛利勝永
真田源次郎信繁(真田幸村
明石掃部明石全登
後藤又兵衛基次

大坂には盛親以外にもどんどん浪人たちが押し寄せてくる。
兵隊の数を補充するには良い作戦だったが。来るものは拒まずの
大坂方の方針は後々自らの首を絞めることに繋がる。

当然だが、寄せ集めの集団となり、考え方も様々で団結するはずもない。
豊臣家臣団も血の気の多い浪人達を統率できる能力を持つものはいなかった。

有力な浪人衆を踏まえての評定が始まった。
豊臣家の家臣達は籠城を支持するが、浪人衆が反論する。
戦において戦略に長けていた真田源次郎は徳川の部隊が大坂に集結する前に近畿の主要な個所を占拠して、西国の大名が徳川方と連携出来ないように連絡網を遮断し、近江国瀬田川で陣を敷き大坂入りしてくる徳川の主力を迎え撃つ。


その間に西国の大名たちを味方につけていく作戦を主張した。

古来より籠城した場合、負けない可能性はあるが、決して勝つことは出来ない。
大坂に集結した浪人の数ならば近畿周辺は容易に豊臣の旗に塗り替えられるという算段だった。

しかし、結果として浪人衆の作戦が採用されることなく、豊臣家の直臣達の主張する籠城戦に決まった。
理由は豊臣家の宿老大野治長(おおのはるなが)らの能力が低いとの説もあるが、秀頼の母淀の存在であったと言う。
城を出て戦う際は当然総大将である秀頼も陣頭に立って命令を下す必要があるが、溺愛している息子を危ない目に遭わすことを母が認めるはずがなかった。
秀頼も当初は信頼する源次郎の意見に従う意向を示していたが母の一括により断念した。
源次郎を始め浪人衆達も雇い主である豊臣秀頼の決断には逆らえない。

先手必勝のチャンスを指を咥えてやり過ごした豊臣家であったが、一方の徳川は万全の態勢で悠々と大坂入りをした。
周辺の大名たちも誰一人として豊臣に味方する者はいなかった。
大阪城を完全に徳川軍が包囲した陣形となった。