忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

【長宗我部盛親列伝 -13-】

このまま寺子屋の先生として細々と一生涯を終えると思われていた盛親に再び戦場への誘いがやってきた。
慶長20年(1615年)豊臣家の使者が盛親を尋ねた。

徳川家康も当初は子供であった豊臣秀頼に対して一種の愛情を持って接してきたが、
老いていくに従って自分が死んだ後の徳川家を考え、豊臣家滅亡に向けたシナリオを練り始める。
もし、豊臣秀頼が平凡なバカ殿であれば、このような脅威は生まれなかったもしれないが、成長した秀頼の姿を見た家康はその聡明利発さに衝撃を受けてしまった。

我が息子たち(秀忠等)よりも遥かに能力が秀でている事を天下人家康が見過す訳がない。
くすぶり続けていた徳川、豊臣の対立が一気に燃え上がってしまいます。

豊臣家をあからさまに挑発し始めた徳川家は、事あるごとに豊臣家の行事に難癖をつけていった。
有名な方広寺大仏殿の梵鐘問題等がある。

豊臣家は徳川への備えとして日本中に散らばっている徳川に恨みを持つ浪人たちに
声をかけ始めた。その候補に盛親も含まれた。
盛親への報酬は戦勝の暁には長宗我部家の復興と土佐一国を与えるとのことで、
これは盛親にとって悲願であり、千載一遇のチャンスであったことは言うまでもない。
この時盛親は40歳、盛親の気持ちは一気に燃え上がった。

とはいえ、盛親は京都所司代の監視下にあり、まずは京を脱出する必要があった。
脱出をする際に従った家臣は6名。
その後盛親が大坂に向かう事を聞いた旧家臣たちは次々に盛親のもとへ馳せ参じた。
大坂に着いた時には総勢1000人を超えていたと言われる。
これは大坂に集結した浪人の中でも群を抜いた勢力だった。
主な旧家臣としては
 吉田孫左衛門康政(よしだまござえもんやすまさ)
 吉田市左衛門政重(よしだいちざえもんまさしげ)
 中島与市兵衛重房(なかじまよいちべぇしげふさ)
 佐竹蔵人佐親直(さたけくろうどのすけちかなお)
 久万豊後俊朝(くまぶんごとしとも)
 富永藤五郎勝元(とみながとうごろうかつもと)
 五百蔵左馬進(いおろいさまのしん)

この左馬進だが、元は桑名親光の次男であり、戸次川で討死した五百蔵左馬進
の娘と娶って義父と同じ名を名乗った。

ちなみに同じような境遇の真田源次郎信繁は300名の旧家臣と共に入城している。
記録では盛親が入城した日は10月6日(月)。※グレゴリオ暦