忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

【長宗我部盛親列伝 -07-】

 徳川家康の野望が見え隠れし始めると、制止しようとする石田三成ら官僚との争いが激化し始めた。
 元親はこの時期京都伏見の屋敷に滞在。徳川家康が屋敷に訪問したという記録もある。


 1599年(慶長4年)、豊臣家への人質であった津野孫次郎親忠が土佐に戻されたが、この帰国を快く思わない元親によって幽閉されてしまう。
幽閉理由については久武親直の讒言されたためと言われる。

 元親は病状が悪化し、京伏見で療養するがそのまま他界した。長宗我部元親享年61歳。
臨終の床に入り、いよいよ死期を悟った元親は後継者である盛親と家臣
  ・立石助兵衛正賀(たていしすけべぇまさよし)
  ・中内兵庫(なかうちひょうご)
  ・町又五郎(まちまたごろう)
  ・豊永藤五郎勝元(とみざわとうごろうかつもと)


達にこれからの長宗我部家を託した。

遺言は
先鋒は桑名弥次兵衛、中備えは久武内蔵助、そして殿は宿毛甚左衛門に仰せつけよ
という内容だった。

 

 長宗我部家の新しい当主となった盛親だったが、日本全国が大混乱に陥っていた時期と重なった事もあり、豊臣政権が盛親の継承を認めたという記録は見当たらない。
認めなかったのか話をする余裕すらなかったのかは不明だが22代当主長宗我部盛親の船出であった。