忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集です。

蜷川道標

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〇 【蜷川道標】(にながわ どうひょう)

〇 1533~1610
道標はもともと足利将軍家に仕えていた家柄で、「蜷川親世(にながわちかよ)」の長男として生まれました。室町幕府13代将軍であった「足利義輝(あしかがよしてる)」に仕えていましたが、1565年に、義輝が暗殺されると所領であった丹波国を失うことになりました。
その後親戚である「長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)」の妻を頼り、元親に仕えました。
道標は宮中の礼儀作法等に詳しく、さらに歌人としてもかなりの腕前でしたので、元親から重用されます。
元親が1597年に制定した「長宗我部元親百箇条」の製作にも携わった人物です。
1600年、関ケ原の戦いで長宗我部家が劣勢となった時も、一揆鎮圧や財務的な処理で手腕を発揮しました。
1602年には「徳川家康(とくがわいえやす)」に取り立てられて、御伽衆となりました。
1610年に、京都で死去します。享年77歳でした。

 

〇蜷川道標をかんがえる
「御伽衆(おとぎしゅう)」とは、主君の相談役(政治、軍事、芸能等)として仕え、世間話等の相手も勤めていた職です。「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」は読み書きが苦手だったので、約800人もの御伽衆を揃えていたと言われています。よほどお勉強が・・・
長宗我部家における道標は非常に貴重な存在であったと言えます。土佐という田舎でありながら宮中や京での作法を熟練していた人物が居てくれることで髪形の大名とも対等に外交が出来たことでしょう。
当時の交渉は相手に舐められたら終わりなので、武力はもちろん、こういった作法にも相手にバカにされない対応が必要だったのでしょうね。これは現在にも通ずる所があります。