忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

羽床資載

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〇 【羽床資載】(はゆか すけとし)

〇 生年不詳~1582

資載は讃岐国羽床城(香川県綾歌郡綾川)の城主でした。
1578年、娘婿である「香西佳清(こうざいよしきよ)」と不仲になり、娘も離縁してしまいます。
そのことから香西氏を攻めますが、長男の「資治(すけはる)」が討たれてしまいました。
激怒した資載は弔い合戦として、香西氏の柾木城(まさきじょう)を攻め落とします。
1579年、讃岐に侵攻してきた長宗我部軍に攻められますが、軍勢750余りで立て籠ります。長宗我部軍は八度に渡って羽床城を攻めますが、遂に攻め落とすことが出来ず、長宗我部元親もその武勇を賞賛します。
使者として「香川信景(かがわのぶかげ)」と遣わして、城兵の無事を保証する事を条件として降伏開城を求めました。
資載もその申し出を受け入れて降伏します。
所領は安堵され、資載は長宗我部軍に加わります。
しかし、1582年、十河城の戦中に病死してしまいました。

〇羽床資載をかんがえる
長宗我部に与してから間もなく病気で息を引き取ることになり、元親もさぞ残念におもったことでしょうね。武勇に秀でていた資載を讃岐攻めの主力として考えていたと思われます。
資載の死後は人質になっていた次男「資吉(すけよし)」が家督を継ぎますが、資吉も戸次川にて討死して、羽床家は滅亡してしまいました。
香西佳清と娘の不仲ですが、一説によると、
佳清は俗にいう「ブサメン」であり、しかも盲目になってしまい、負担やストレスも重なって仲が悪くなってしまったと言われています。
仮に性格がめちゃくちゃ良かったら娘も離別する程ではなかったのかもしれませんが、性格も悪く、顔も・・・盲目の為、世話も増えたとあれば、上手くいく可能性は低くなるでしょうね・・・