忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集です。

香西佳清

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〇 【香西佳清】(こうざい よしきよ)

〇 1553~1588

佳清は讃岐国「香西元載(こうざいもととし)」の子として生まれました。(別説あり)
元来は細川家に従っていましたが、三好家の讃岐侵攻により、三好家に従っていました。
1568年、備前国の本太城(もとぶとじょう)(岡山県倉敷市児島)を攻めましたが、村上水軍の前に惨敗し、元載が討ち死にしてしまいました。跡を継いだ佳清は1570年、野田、福島城の戦いにおいて天然痘を患い、失明しました。
失明後も当主として様々な戦に参陣します。
1574年、「三好長治(みよしながはる)」が出兵し、攻められますが、他の讃岐衆らの加勢を受けて退けた。
1576年には「香川之景(かがわゆきかげ)(信景)」と共に「織田信長(おだのぶなが)」に降伏しました。
1578年、妻と離縁をしたことで義父であった「羽床資載(はゆかすけとし)」が離反、家督相続をめぐって御家争いが勃発してしまいました。
この混乱の中、「長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)」が讃岐にて勢力を伸ばし、「香川親和(かがわちかかず)」を大将とする長宗我部軍が居城である藤尾城(ふじおじょう)(香川県高松市香西本町(宇佐八幡神社))に攻め寄せてきました。
これに対し、一旦は足止めに成功しましたが、落城寸前まで追い込まれてしまいますが、交流のあった香川信景の仲裁によって、元親に許されて降伏しました。
1585年、「羽柴秀吉(はしばひでよし)」の四国征伐が始まると、長宗我部の軍として奮闘しますが、敗北して下野しました。
その後は「宗可(そうか)」と号して「仙石久秀(せんごくひさひで)」らから慈悲を受け、1588年に死去しました。享年35歳でした。

 

〇香西佳清についてかんがえる
父親については、香西元載である説と、元載の父親である元成であるという説があります。戦国時代における資料は結構あいまいな情報や間違いもあるので、確かなことを追求するのは難しい所がありますね。
失明してしまったことから「盲目の大将」とも呼ばれています。
伊達政宗(だてまさむね)」は片目だったので、まだ戦場でも活躍できたと思いますが、全盲ではつらかったでしょうね・・・
「目」の役目をする側近がいたのではと推測されます。