忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

香川信景

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〇 【香川信景】(かがわ のぶかげ)

〇 1527~1600

信景は讃岐国西讃(さいせん)の守護代「香川元景(かがわもとかげ)」の嫡男として生まれました。
居城は讃岐国本台山城(香川県仲多度郡)でした。
元の名前は「之景(ゆきかげ)」といいます。
1552年、「三好実休(みよしじっきゅう)」から、
「細川家を離反して三好家に臣従せよ」
と誘われますが、之景はこれを拒否します。
三好軍は1563年、総勢1万8000をこえる兵力で之景の牙城である天霧城(あまぎりじょう)へと迫ります。
天霧城の兵力は6000程でした。
数の上では不利であった香川軍でしたが、難攻不落の天霧城の前に三好勢は苦戦を強いられます。長期戦を不利と判断し、「香西元成(こうざいもとなり)」を介して和議を申し出ました。
香川家の所領を安堵するとの条件、三好家に従って軍役を務めるという条件にて和議が成立しました。(善通寺合戦)

1574年、之景は香西家と共に、「三好長治(みよしながはる)」と対立します。戦は之景達の勝利となます。讃岐における三好の勢力はどんどんと衰退してきました。
1575年には「金倉合戦」が勃発し、之景は西讃四郡(仲多度郡、三田郡、刈田郡那珂郡)を支配下に置きます。
1576年、機内で「織田信長(おだのぶなが)」の勢力が膨らんでいくと、之景は「香西佳清(こうざいよしきよ)」と共に「三好笑岩(みよししょうがん)」の仲介を得て織田家の臣下となりました。
その際、信長より「信」の字をもらい、信景と名乗るようになります。
しかし、1578年には、土佐より侵攻してきた「長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)」の攻撃を受け、藤目城(ふじめじょう)(香川県観音寺市)を皮切りに、次々と攻略されていきました。
笑岩はすでに亡くなっており、その頃讃岐国で勢力を持っていた「十河存保(そごうまさやす)」より参陣要求を受けますが、信景はこれを拒否します。
そして、信景は元親の軍門に降ります。
元親の次男「親和」を養子として迎えました。
1579年には、「羽床資載(はゆかすけとし)」を説得し、開城させました。
1585年、には元親の四国平定が事実上実現しましたが、その数か月後に「羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉)」の四国征伐によって長宗我部元親は降伏、香川家は取り潰しとなり、土佐国にて義理の息子と共に幡多郡山田郷にて暮らします。
信景の最後は実は不明で、土佐で天寿を全うしたという説や、戸次川で戦死した説、肥後国に移り住んたといった説もあります。
ともあれ死亡したとされているのは1600年なので戸次川での戦死説は有力ではなさそうですね。

〇香川信景をかんがえる。

信景は讃岐内では勢力も持ち、強固な天霧城をもっていたので、決して弱くはありませんでした。三好家との争いでも勝利を収めています。
しかし、時代が悪かったのか、外部からの侵略によって、あっさりと抵抗を止めてしまいます。
それほど長宗我部の勢いが強かったのかもしれません。織田家も1570年代後半は、本願寺や毛利との戦があり、四国に手を回す余裕もなかったと思いますので、自分の身は自分で守るを実践した形でしょう。
ひっついた長宗我部も太閤には勝てずに、とうとう香川家は取り潰されてしまう事になります。
1587年には長宗我部との鎹であった養子の親和も病気で死亡しますので、土佐に残る理由も無くなってしまいました。
微妙な立場になってしまった、信景が土佐から出る事は十分に考えられますね。