忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

香宗我部康吉

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〇 【香宗我部康吉】(こうそかべ やすよし)

〇 1544~1619

康吉は土佐国香美郡の「香宗我部秀通(こうそうかべひでみち)」の嫡男として生まれました。
1556年に父が叔父である「親秀(ちかひで)」に暗殺されると一旦母方の里である細川氏に引き取られます。土佐国神田城(こうだじょう)(高知県高知市神田)にて「細川宗桃(ほそかわそうとう)」に養育されますが、叔父であり父を殺した親秀によって呼び戻され、自分が隠居していた土地を与えました。
中山田(高知県香南市中山田)に住みだした康吉は「香宗我部親康(こうそうかべちかやす)」との無益な対立を避けるため、姓を「中山田」に改めました。
その後は香宗我部家の家老として親康とも良好な関係を築いていきます。
親康死後は家督を継いだ貞親(当時若干3歳)の後見人となりました。
関ヶ原において長宗我部家が改易されると、新しく土佐の藩主となった「山内一豊(やまうちかずとよ)」に仕えました。非常に正義感があり、礼儀も良く智勇共に優れていた武将であったと伝わっています。
1619年に死去しました。享年75歳でした。

〇香宗我部康吉をかんがえる

一般的には「中山田康吉」として呼ばれますが、私はあえて香宗我部と書きました。
あまり意味は無いのですが・・・
父を殺した叔父に対しての恨みはどれだけだったか解りませんが、叔父からもらった領地に住む辺り、戦国の世として受け入れていたのかもしれません。
親康自体には恨みはないので良好な関係が築けたのかもしれません。
康吉の性格や能力もあったと思いますが、山内家に仕えてからも重用されました。
父である秀通も有能な武将であったはずなので、元来香宗我部一族の武将としての能力は決して平凡ではなかったのかもしれません。