香宗我部親秀
〇 【香宗我部親秀】(こうそかべ ちかひで)
〇 生没年不詳
親秀は土佐国香美郡「香宗我部通長(こうそかべみちなが)」の嫡男として生まれました。
1526年、親秀は土佐国安芸郡の豪族安芸氏との戦いによって敗北し、嫡男の「秀義(ひでよし)」を失ってしまいました。
戦意を失ってしまった親秀は家督を弟である「秀通(ひでみち)」に譲って、隠居します。
隠居後も香宗我部家は衰退の一途を辿ってしまいます。
1550年代には隣接する豪族「長宗我部氏(ちょうそかべし)」が頭角を現して香宗我部氏の領土を脅かし始めます。親秀は「国親(くにちか)」と交渉し、国親の三男「親康(ちかやす)」を養子に迎え、長宗我部氏と姻戚関係になろうと画策します。
当主である秀通は猛反対します。秀通にはすでに嫡男がおり、養子を迎える必要が無い点、国親を恐れての行為は武人の恥であるとの理由からです。
しかし、1556年親秀はついに秀通を暗殺してしまいます。
そして、1558年半ば強引に親康を養子に迎え跡を継がせました。
その後は、親康の補佐をしたと言われています。
〇香宗我部親秀をかんがえる
実の弟を暗殺して無理やり強い長宗我部の下に入る行為は戦乱の世で生き残るためとはいえ、印象は悪いでしょうね。秀通も、まさか兄に暗殺されるとは思っていなかったのかもしれません。
兄弟で考えが違うケースは多々ありますので、秀通からすると「話せば解る関係」と思っていた事でしょうね。
しかし、この親秀の決断は結果として香宗我部家を存続させることに繋がります。
江戸時代に入り、香宗我部直系は途絶えてしまいますが、親康の子供や秀通の息子等はその後も絶えることなく明治維新後まで続いているのを見ると、この選択が全てにおいてダメだったという訳ではないのかもしれません。