忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集です。

香宗我部貞親

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〇 【香宗我部 貞親】(こうそかべ さだちか)

〇 1591~1660

貞親は「長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)」の弟である「香宗我部親康(こうそかべちかやす)」の次男として生まれました。
1592年、兄が文禄の役で死去し、翌年に父が相次いで死去してしまうと、僅か3歳で家督を継ぎます。
1600年の関ケ原時も9歳なので当然戦においては資料も残っていなく、土佐で静観していたと考えられます。結局運命に従うことになり主家である長宗我部家は改易となり、若くして浪人の身となってしまいます。
一旦は土佐から高野山に向い、高室院(たかむろいん)で暮らしますが、その後堺へと住まいを移します。
そして、浪人の身から士官を志し、肥前国唐津藩主「寺沢広高(てらさわひろたか)」に仕え500石の知行を与えられました。
1614年、従兄弟であり昔の主君であった「長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)」が豊臣家に召し抱えられると、名前を「中原喜左衛門(なかはらきざえもん)」に変えます。
その後、寺沢家を出奔し、浪人に戻ります。
しばらく浪人として過ごしますが、遠縁である「春日局(かすがのつぼね)」からの斡旋により、武蔵国川越藩主「堀田正盛(ほったまさもり)」に1000石で召し抱えられます。
1638年、正盛は10万石に加増されて信濃国松本藩へと転封されますが、これに従います。
さらに1642年には1万石加増されて正盛は下総国佐倉藩に転封されます。
1652年、子宝に恵まれなかった貞親は「高井源左衛門(たかいげんざえもん)」の嫡男「重親(しげちか)」を養子としています。
1660年に死去してしまいます。享年69歳でした。

〇香宗我部貞親をかんがえる
若干3歳で兄や父を失った不運の境遇で、さらに主家の改易、浪人、士官とまさに波乱万丈の生涯を送ったんですね。
寺沢家の出奔についても、大坂の役が原因なのでしょうか・・・真意は解りませんがそんな気もします。
春日局とは遠縁に当たりますが、相当遠いです。

春日局は「斎藤利三(さいとうとしみつ)」でその娘として春日局(福)が生まれています。
利三の兄に「石谷頼辰(いしがいよりとき)」という武将がいます。
で、頼辰の義理の妹が「長井宗我部元親(ちょうそかべもとちか)」の妻です。
貞親からするとお婆ちゃんの実家?縁者になりますね。(春日局もよく貞親を見つけたな・・・)
戦国時代ではどういった縁戚関係になっているか複雑で興味深いですね。
元親は明智光秀と密接にかかわっていたようですので、山﨑の合戦で光秀が勝っていたら元親の立ち位置も変わっていたのかもしれませんね。それに付随するように貞親の人生も・・・
とにかく最後は堀田家で仕事をして大往生(江戸時代で69歳は長生きでしょう)していますから晩年は幸せだったのかもしれませんね。
にしても香宗我部の名前を捨てたのは個人的には残念です。