吉田孝頼
〇【吉田 考頼】(よしだ たかより)
〇 1494~1563
孝頼は、「吉田 則弘(よしだ のりひろ)」の嫡男として生まれます。
岡豊城のすぐ近くにある吉田城に住んでおり、「長宗我部 国親(ちょうそかべ くにちか)」が土佐一条家の計らいにより岡豊城で長宗我部家を再興すると、国親の妹と結婚して、一門となりました。
その後は重臣として国親に仕えます。
孝頼は頭が良く智略家であり、様々な計略をもって国親を助けます。
有名な「一領具足(いちりょうぐそく)」も孝頼のアイデアであったと言われています。
1560年、国親の後を継いだ元親の命を受け、土佐群井口城主「井口 勘解由(いぐち かげゆ)」を倒し、井口城主となります。
しかし、老体から1563年病死してしまいした。
享年69歳、戦国時代においては長生きです。
〇吉田孝頼をかんがえる
孝頼の考案したとされる「一領具足」とは、半農半兵の兵士及びその軍団の呼び名です。
普段は農民として生活をし、いざ御城から徴収されると、具足を携えて素早く集まれるように
普段から槍や鎧を田畑に置いていた様子から、「一領具足」と呼んだようです。
メリットとしては、
- 普段から農作業をしているので、足腰が強い。ようは力持ちであった点。
- 一般の武士(御城勤め)の仕事などは免除されていた点。
- 農民が増えるので田畑を耕して米や野菜をより多く作る事が可能(人材が多い)な点
等がある。
デメリットとしては
- 農繁期(収穫や田植えの時期)は忙しいので動員できない
- 田畑の管理をする必要があるので。遠征(遠出)が出来ない。
- 本格的な兵士では無いので、統率の取れた動きの訓練などが苦手
- あくまでも力の強いマンパワー集団
所が挙げられる。
主力の一領具足が長期の戦には向いていないので、長宗我部家の四国統一が遅かった理由にも繋がります。
実は長宗我部家臣吉田一族と土佐山内一族とには不思議な縁があります。
吉田一族は「中臣 鎌足(なかとみの かまたり)」の末裔で、鎌足は後に天智天皇から「藤原姓」を賜ります。
「藤原 秀郷(ふじわらの ひでさと)」の子孫「首藤 俊宗(しゅとう としむね?)」が土佐に領地を拝領されてから始まったとされています。
この「首藤 俊宗」の弟「首藤 俊氏(しゅとう としうじ?)」が尾張国に住んで山内と名乗ります。
そして、土佐山内家となるのです。