忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集です。

吉良親実

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〇 【吉良 親実】(きら ちかざね)

〇 1563~1589

親実は「長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)」の弟「吉良 親貞(ちら ちかさだ)」の次男として生まれた。
幼少より頭も良く、武芸も達者で、元親の嫡男「信親(のぶちか)」とは2歳しか離れていないので共に切磋琢磨したのではないかと推測されます。

1576年、父が他界すると家督を相続します。親実には「如渕(じょえん)」という兄が居ましたが、出家しており、家督は継がなかったようです。
一門として活躍し、さらに元親の娘を妻に迎えている点からも、元親が親貞亡き後絶対の信頼を寄せていたと思われます。もしかしたら、信親と共に今後の長宗我部を支える二本柱として考えていたのかも
しれません。
しかし、長宗我部家を悲運が襲います。

1586年、嫡男信親の死によって起こった跡継ぎ問題が勃発すると、親実は次男である「香川 親和(かがわ ちかかず)」が相応しいと主張します。

これに対して、日ごろから犬猿の仲であった元親の側近「久武 親直(ひさたけ ちかなお)」は四男である千熊丸を後継者として推します。

元親自身も千熊丸を溺愛していた点もあり、千熊丸が優勢になっても親実は元親に諫言します。この事が元親の逆鱗に触れ、1589年とうとう切腹させられてしまいました。享年26歳

もし、この時に元親が思いとどまっていたら、長宗我部家の歴史が変わっていたのかもしれません・・・

無念の死を遂げた親実と殉死した者達は「七人みさき」となって、土佐の民を震え上がらせますが、吉良神社を建立し、祀った事で収まったと言われています。

 

〇吉良親実を考える

親実は頭脳明晰で、武芸達者だったとの事ですからかなりの自信家であったと推測されます。
気性も荒く、言いたいことをずけずけと言ってしまう強引な性格だったのかもしれません。
能力の高い人は傲慢な人が少なからずいるといった所でしょうか。
信親とも幼馴染でありながら、若干の衝突はあったことでしょう。
ですが、懐の深い信親が「まぁまぁ」と上手くこなしていたかと想像すると、なんだか楽しくなります。
久武親直とは特に仲が悪かったと言われています。

 

1586年 太閤秀吉が大仏を建立する事になり、土佐からも材木を送ることになりました。
伐採の役目を担ったのが親直でした。
ある日、伐採の現場を視察しにやってきた親実でしたが、親直は気付いているのか・・まったく親実に敬意も払わず、普通に仕事を行っていました。この態度に激怒した親実が矢を射抜き、親直の被っていた笠に刺さってしまいました。


この出来事が決定打となり、両者はいがみ合うようになりました。
詳しい両者の考えは分かりませんが、親直からしたら親実は君主の甥っ子であり一門なので、視察に来たのが分かっていたといしたら最低限の敬意やもてなし、挨拶くらいはきちんとしなければならなかったでしょう。
親実側も、もう少し大きな器で親直の態度を寛容に済ますくらいの器量があったらと思いますし、そもそも仕事に夢中になって気付いていなかったのかもしれませんよね。

家督争いにおいても、親直の吹聴がかなりあったのではと推測されます。なにせ親直は陰口のプロですから。
それに踊らされた元親も、冷静な判断ができなかったのでしょう。本当に残念な出来事です。