河野通直
〇 【河野 通直】(こうの みちなお)
〇 1564~1587頃
通直は、河野家第38第当主「河野 通宣(こうの みちのぶ)」の養子となり、1568年に後を継ぎました。
道宣は中風(ちゅうぶ)を患い、政務が出来なくなった為です。
※中風とは、「ちゅうふう」ともいいます。手足のしびれや神経麻痺、言語障害等の症状があり、現在では脳血管障害による後遺症とされています。
この時若干4歳だったので、後継者として実父の「通吉(みちよし)」が政治を行います。
最近の研究では通吉は実の父ではないかもしれないと言われていますが・・・
河野氏は周りの国から攻められて、弱体化していましたが、毛利氏との関係は良好であった為滅ぼされることはありませんでした。
1584年には長宗我部家に降伏してしまいます。この時点では家がつぶされた(領地を没収された)訳では無いので滅亡はかろうじて免れました。
1585年、秀吉による四国征伐が始まると河野氏は豊臣、長宗我部のどちらに味方する事も明言せずに籠城します。
これは、家中の意見がまとまらなかった為です。
居城である湯築城(ゆどのじょう)に籠城ていましたが、長年助けられていた毛利の「小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)」からの降伏勧告を受けて開城しました。
しかし、一度は籠城した罪を咎められ、通直は領地を没収されて河野家は滅亡してしまいました。
1587年、元来病弱であった点等から隆景の保護下で暮らしていた安芸国竹原(広島県竹原市)で病死したと言われています。享年23歳。
〇河野通直をかんがえる
まず実の父親とされている。河野通吉は河野本家ではなく、予州家と呼ばれる庶流(しょりゅう)出身です。
※庶流というのは本家から分かれた一族の事です。
通吉自身は能力的にも優れた武将でありましたが、河野家の状況が劣悪過ぎたので立て直す事はできませんでした。大友や一条、長宗我部等隣国により絶えず領地を狙われており、頼みの毛利も本気で守ってくれるわけでもありませんでしたから仕方がなかったと思います。
※村上通康が父親だ!!説は下記に掲載しております。
通直自身も人望があり、多くのエピソードが残っています。
隆景に降伏する際に城内の子供45名を自ら先頭に立って助命したと言われています。
通直の死についても諸説あります。何とも謎の多い武将ですね。
病死説や秀吉から切腹を命じられて自害した説等。これも歴史隙にはたまらない謎ですね。
※※ 村上通康が父親だ!! ※※
父親は村上通康ではないかという説です。
この通康の側室(後室)が「毛利 元就(もうり もとなり)」の娘婿である「宍戸 隆家(ししど たかいえ)」の娘であり、この時に生まれたのが通直です。
この娘は元就からしたら外孫なので、通直は毛利家の遠縁になりますね。
通康の正室は「河野 通直(こうの みちなお)」の娘です。
??はぁって思いましたよね・・・
実は通直のお爺ちゃん(第37第当主)の名前も通直なんです。混乱しますね。
しかし、同じ名前なのも、実父が通康だと思う理由の一つです。
通康は通直(爺ちゃん)から信頼されていたので、沢山の恩義があったと考えられますよね。
だから自分の息子に「通直」と名付けたとしても不思議ではありません。
通直の母はその後第38第当主通宜と結婚します。通宜との間に子供ができなかったので、連れ子である
通直が当主となった。という説がしっくりと来ます。
だとしたら毛利家との繋がりも納得できます。毛利としては領地を広げる為に四国に手を出す可能性もありますし、
弱体化した河野氏を守るよりも攻めて毛利のものとした方がメリットが高いです。
現に九州は何度となく攻めている訳ですので。
この説だと、毛利からすれば河野は一門扱いしていたので別に攻める必要も無い。
当たり前に味方であり、助けられたら遠縁だから助けに行くよ。ってスタンスも頷けます。
守るにしても、もし伊予を取られたとしても毛利の領地自体が侵された訳では無いので、必死に守ってあげる必要も無いって事になりますね。遠縁だし・・・
どちらが正しいかと白黒つけるよりも、こうあってもらいたいって歴史好きの方々が持論を展開して温めているほうが歴史の楽しさは倍増すると私は考えますので、異論、別説等沢山出てこいって感じです。