忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集です。

一条内政

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〇 【一条 内政】(いちじょう ただまさ)

〇 1562~1581頃

内政は土佐一条家兼定の嫡男として生まれました。
母は父の初婚相手「宇都宮 豊綱(うつのみや とよつな)」の娘さんです。

1573年、「長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)」が、父を追放すると家督を継いで土佐国司となりました。


国司とは、「くにのつかさ」とも呼び国(天皇)の行政官として都(だいたい京都)から派遣された偉い役人の事です。


土佐の場合、多くの豪族がひしめき合っていました(有名なのが土佐七雄)が、一条家だけは別格として扱われ、西土佐(幡多方面)では一条家以外の勢力は特にいません。

一条家を一方的に滅ぼした形を取りたくなかった元親は、内政の後継者となります。
国司となった内政は中村で起こった内紛から逃れる為、大津城(高知市大津)に移ります、人々からは「大津御所」と呼ばれました。
元親の娘と結婚して一門となった内政は、一条家の領地を豊かにする為に政治を行います。

しかし、1581年、長宗我部家臣である「波川 清宗(はかわ きよむね)」の起こした謀反に加担した容疑で伊予国へと追放されます。そしてまもなく病死してしまいました。
元親によって殺害(毒殺)されたとも言われていますが、真意は謎です。享年19歳
1580年死亡説や1585年死亡説等あるみたいですが、どちらにしても若すぎる死ですね・・・

 

〇一条内政を考える

歴史の波に翻弄された内政ですね。事実上父を追放した怨敵の一門になるんですから。
内政だけの力では勢いのある元親に逆らうことは出来なかったのでしょう。
内政がどういった心理だったかはわかりませんが、もしかしたら着々と反撃の機会を
狙っていたのかもしれません。

波川清宗の謀反に加担したという理由なのですが、様々な説がありますね。
織田信長の陰謀説では、信長が長宗我部氏はあくまでも一条氏の家臣として抑え込もうとした為に元親が行った対抗策として内政も巻き込まれます。
元親から人形扱いされていた内政からしたら、一世一代の反撃だったのかもしれません。
しかし、謀反に加担した形となった波川清宗なんですが、実は父兼定と追放した際の最大の功労者ですので何とも言えないくらい複雑ですね。

伊予に向かった経緯も追放された説、自ら逃亡した説・・・
いやはや歴史ミステリーですね。