忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集です。

【一条 兼定】

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〇 一条兼定(いちじょう かねさだ)

〇 1543~1585

 兼定は土佐一条家(現在の高知県四万十市中村)一条房基(いちじょうふさもと)の嫡男として生まれました。
土佐一条家は土佐の国司

国司とはその国の行政官的な立場で中央(京都)より派遣された家の事です)です。

しかし、早々に大事件が起こります。1549年房基が突然自殺してしまいました。この時28歳。

兼定はなんと7歳家督を継ぐことになったのです。
当然7歳の子供に国司なんて務まる訳ありません。

 

そこで、当時関白であった大叔父(おじいちゃんの弟)が養父となって後見することになりました。

1558年には宇都宮豊綱(うつのみや とよつな)(伊予国:現在の愛媛県)の娘と結婚します。

しかし、僅か6年後、1564年に離別して大友義鎮(おおとも よししげ)後の宗麟(そうりん)(豊後:現在の大分県
の次女と結婚して、絆を深めました。

1569年に娘婿であった安芸国虎が長宗我部元親に討たれると、元親の矛先がいよいよ一条家に向けられます。

この頃の兼定は危機感を感じるどころか、毎夜のように遊び惚けていました。
この所業を諫めた重臣の土居宗珊(どい そうさん)を処刑してしまった事が決定打となり、家臣からの信望も失ってしまい、1574年にはとうとう豊後へと追放されてしまいました。


豊後では何とキリスト教に入信します。大友宗麟の影響が大きいと思われますが、思い切った決断だったでしょうね。
洗礼名は「ドン・パウロ

その後、兼定は長宗我部に対してリベンジの兵を挙げ、四万十川で決戦に及びます。
結果は兼定の惨敗でしたが、自ら太刀を振るう等奮闘を見せました。

 

兼定は敗れはしたものの、再起を図って伊予国宇和島の孤島である戸島(とじま)に隠れ住みます。しかし元親の刺客に襲われ片腕を切り落とされてしまいました。

この傷が原因で、兼定は病弱になり、1585年、熱病によって病死してしまいました。享年42歳

兼定が亡くなって程なく、長宗我部元親豊臣秀吉に降伏し、阿波・讃岐・伊予の三国を失ってしまいました。
あと数か月長く生きていたら、宿敵長宗我部の悲運を耳にして喜んだことでしょうに、残念です。

 

〇 一条兼定を考える。

世間では兼定を戦国武将の中でもずば抜けて無能だという評価を受けていますが。私はそうは思いません。
四万十川のリベンジ戦では、自ら率先して戦い、大友宗麟にもその人柄を高く評価されました。
土居宗珊についても、叱責されたから腹いせに殺した訳ではなく、多くの家臣が元親に内応する事を取り締まる為に見せしめとして殺したという説もあります。(実際には裏目にでたのですが・・・)
宗珊が本当に内応していたのかもしれませんし・・・(汗

何よりも中村の領民たちからは慕われていたようです。むしろ長宗我部に対して悪いイメージを抱いている人が多かったようです。
信長の野望でも能力が笑っちゃうほど低いですが、これは結果論からの数値によるものですから当てにはできません。

 

調べれば調べるほど兼定は人情味のある興味深い武将ですね。