安芸国虎
〇 【安芸 国虎】(あき くにとら)
〇 1530~1569
土佐(現在の高知県安芸市)の豪族であった「安芸元泰」(あきもとやす)の次男(長男は若くして亡くなっている)として生まれ、家督を継ぎました。
次第に勢力を広めた長宗我部家と領地争いを繰り返すが、義理の兄である一条兼定の仲立ちによって和睦(仲直り)しました。
そんな中長宗我部元親から使者が送られてきたが、内容に激怒。
なぜかというと、元親が
「仲良くなりたいから岡豊城まできてちょ~」
と伝えたのをどう聞き違えたのか
「仲良くしてもらいたかったら岡豊城までこいやコラッ!」
っと解釈したようです。
これは元親の策略であったともとれるし、本当に勘違いしたのかもしれません・・・
国虎は使者を追い返してしまいます。
和睦を取り消し、元親を滅ぼそうと戦の準備を始めます。
対して元親も黙ってはいません。すぐさま兵を整え安芸方面に進軍します。
高知市内と安芸市の間くらいにある「八流(やながれ)」の戦いで国虎は大敗してしまいます。
この時八流の川は安芸兵の血で真っ赤になったと言われています。
ついに国虎は安芸城に籠城しましたが、多くの家臣たちがどんどん長宗我部に寝返り、失意の中、領民と家臣の命と引き換えに自分は自害すると元親に伝え、妻を一条家(四万十地方)に送り返し、息子の千寿丸を阿波国(今の徳島県)に逃がした後で、自害してしまいました。享年40歳でした。
元親は、その後、安芸地方を弟の親泰に治めさせました。
〇 安芸国虎を考える。
私の国虎イメージは「柴田勝家」豪傑で曲がった事が嫌いで、真っ直ぐな頑固者。
戦には強いが計略には弱いタイプ。
計略などではなく、真正面からガチンコで戦う事しか知らないといったイメージです。
長宗我部との戦いでは家臣たちがどんどん離反していきますが、頑なに抵抗し続けたのは真の武士(もののふ)だったのではないでしょうか?
国虎が自害した後、殉死(後を追って死ぬこと)した家臣も沢山いたようですから、すごく慕われていたのでしょう。
実際は元親に寝返った者もいたので、好き嫌いがはっきりしていたのかもしれませんね。なんとも土佐の男らしいです。
家老の黒岩越前は、国虎の妻を一条家に送り返した後、殉死しています。
この武将は元親からも認められるほどの武勇を持っていたと言われていますので、元親も残念だったことでしょうね。