【吉良 親貞】
〇 吉良親貞(きら ちかさだ)
〇 1541~1576
親貞は長宗我部国親の次男として生まれました。
兄元親とは2歳離れていますがほとんど年子みたいな感じなので、喧嘩もしたでしょうが、仲も良かった事でしょうね。
初陣は兄と同じ1560年、長浜の戦いでした。
1563年には兄の命によって土佐国吾川郡一円を支配していた吉良宣直(きらのぶなお)の婿養子となって吉良家当主となります。
ただし、この時はすでに吉良氏は本山氏に滅ぼされていましたので、元親が復興させた形となります。
その後は土佐一条家を攻め、数々の戦で活躍します。ついに一条兼定を追放してしまいます。
1575年には追放された兼定が攻めてきますが、四万十川の戦いで一条軍を再び倒しました。
しかし、翌年1576年に病死してしまいます。暗殺されたという説もありますが、長宗我部家にとっては大きすぎる損害であり、
元親も最も信頼できる片腕を失ってショックであった事でしょう。享年35歳。
〇吉良親貞と考える。
元親が最も信頼していたのがこの親貞ではなかったでしょうか。武田信玄と弟信繁の関係に近いように思います。
名実ともに長宗我部ナンバー2として、兄を大いに支えた名将も病には勝てなかったのが悔やまれますね。
元親は当初大恩ある一条家を攻めることについては消極的(攻めたいけど・・・)だったと言われており、
これを見かねた親貞が
「一条家を攻める事の負い目は全て私が受けます。」
と言ったそうです。
そして一条家を滅ぼした矢先に病・・・単なる偶然だと思いますが、様々な思いが錯綜してしまいますね。