忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集等です。

国吉甚左衛門

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〇 【国吉 甚左衛門】(くによし じんざえもん)

〇 生年不詳~1588
本来は「親綱(ちかつな)」と言いますが、甚左衛門のほうが有名ですのでこちらで説明します。
甚左衛門を初めとする国吉家は、長宗我部家に古くより仕えていました。
久武、桑名、中内と呼ばれる長宗我部三家老に次いだ重臣です。甚左衛門も家老として、
1563年には香美郡にある王子城(国吉城)(香南市香我美町徳王子国吉)を築城して3700石を知行します。
元親の四国統一にも大いに貢献して1578年、讃岐国の財田城(香川県三豊市財田)を攻め落として城代となりました。
その後、讃岐国の軍代となり、讃岐平定の主戦力として戦います。


※軍代・・・主君に代わり、戦場で指揮を執る者をさします。

豊臣家に降伏した後は検知「太閤検地」を実施し、土佐は98000石として石高が算出れました。
1588年に惜しまれながら死去してしまいました。

○甚左衛門をかんがえる
太閤検地での土佐の石高って低すぎますよね・・・9.8万石って。
一応全国統一の基準で測ったってことなのである程度の信憑性はありますが。ちなみに江戸時代に入って山内家になってからの
石高が20万石に激増しています。そんなに山内家は内政上手なのでしょうか???
戦国時代はいわゆる「隠し田」が多くあったそうですので、山の多い土佐では隠しやすかったんでしょうかね。
それをどんどん発見されて増えたとも考えられます。
甚左衛門の内政能力は高かったとは思いますが、同じ土佐の領主として見つけても見なかった事にしたのかもしれません。
香美郡(現在は香南市香我美町一体を治めていた所からも、元親に信頼されていたと思います。
四国内の戦いでは最も激戦だった讃岐において軍代を任せられる点においてもかなり有能なのではないかな。
だけど、マイナーですよね。もっと注目されても良いと思うのは私だけでしょうか?
これを機に「国吉甚左衛門」覚えてくださいね(笑)

羽床資載

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〇 【羽床資載】(はゆか すけとし)

〇 生年不詳~1582

資載は讃岐国羽床城(香川県綾歌郡綾川)の城主でした。
1578年、娘婿である「香西佳清(こうざいよしきよ)」と不仲になり、娘も離縁してしまいます。
そのことから香西氏を攻めますが、長男の「資治(すけはる)」が討たれてしまいました。
激怒した資載は弔い合戦として、香西氏の柾木城(まさきじょう)を攻め落とします。
1579年、讃岐に侵攻してきた長宗我部軍に攻められますが、軍勢750余りで立て籠ります。長宗我部軍は八度に渡って羽床城を攻めますが、遂に攻め落とすことが出来ず、長宗我部元親もその武勇を賞賛します。
使者として「香川信景(かがわのぶかげ)」と遣わして、城兵の無事を保証する事を条件として降伏開城を求めました。
資載もその申し出を受け入れて降伏します。
所領は安堵され、資載は長宗我部軍に加わります。
しかし、1582年、十河城の戦中に病死してしまいました。

〇羽床資載をかんがえる
長宗我部に与してから間もなく病気で息を引き取ることになり、元親もさぞ残念におもったことでしょうね。武勇に秀でていた資載を讃岐攻めの主力として考えていたと思われます。
資載の死後は人質になっていた次男「資吉(すけよし)」が家督を継ぎますが、資吉も戸次川にて討死して、羽床家は滅亡してしまいました。
香西佳清と娘の不仲ですが、一説によると、
佳清は俗にいう「ブサメン」であり、しかも盲目になってしまい、負担やストレスも重なって仲が悪くなってしまったと言われています。
仮に性格がめちゃくちゃ良かったら娘も離別する程ではなかったのかもしれませんが、性格も悪く、顔も・・・盲目の為、世話も増えたとあれば、上手くいく可能性は低くなるでしょうね・・・

池頼和

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〇 【池頼和】(いけ よりかず)

〇 生年不詳~1593

頼和は土佐国長岡郡池城主であった「池頼定(いけよりさだ)」の嫡男として生まれました。
父はは土佐細川家「細川宗桃(ほそかわそうとう)」の息子なので、血統は細川氏になります。
1547年、長宗我部氏から攻撃されると初めは抵抗していましたが、
「中嶋大和守(なかじま やまとのかみ)」の計略で、一族の「池万五郎(いけ まんごろう)」が寝返ります。長宗我部当主「国親(くにちか)」の娘を娶って姻戚関係となりました。
長宗我部氏の一門衆となった後は水軍の長を務めて堺との交易によって財政面で長宗我部氏を助けます。
その後妻との仲が悪くなると、妻の弟である「元親(もとちか)」から謀反の疑いをかけられて、失意の中1593年、切腹させられてしまいました。

 

〇池頼和をかんがえる
浦戸や種﨑周辺を治めていた池氏は、古くから浦戸の港の影響で財政的に潤っていました。
長宗我部がこの場所を抑えたことによって多大な恩恵が長宗我部氏に注がれたと思われます。
滅ぼすよりも一族にしてしまうほうがメリットが高かったのでしょうね。
一族の「池六右衛門(いけろくえもん)」は小田原の役で軍艦「大黒丸(だいこくまる)」を
操り武功を挙げています。
大黒丸については次のような資料があります。


●大黒丸は戦国時代に多く作られていた軍船「安宅船(あたけぶね)」だった。
●大きさは「18反帆」
「反帆(たんほ)」とは帆船の大きさを示す値で、1反が、大体3尺(90cm)で、これを並べた
数が反帆らしいですので、90×18=1620cm(16m)くらいの帆が必要なくらいの船と考えましょう。
●船大将(船長)は「池六右衛門」
●漕ぎ手が200人
●大砲2門
●鉄砲200挺

 

結構な規模の軍船を持っていたんですね。

土佐水軍をはじめとする「豊臣水軍」は海上から北条家の城を砲撃する等の大活躍を見せます。
秀吉から大いに称賛された元親は、六右衛門に褒美として胴服と小袖を、兵たちには金300貫が与えられました。

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高石左馬助

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〇 【高石左馬助】(たかいし さまのすけ)

〇 生没年不詳

左馬助は長井宗我部家の一両具足でした。一両具足とは半農半兵なので、明確な家臣ではないが、長宗我部に従う武装集団的な
存在です。
土佐国長岡にて80石ほどの知行をもらい、後は本山郷に500石ほどの領地を治めていました。
1600年、関ケ原の戦いにて主家が改易となると、左馬助は新領主となった「山内家(やまうちけ)」に対して反抗します。
山内一豊(やまうち かずとよ)」が土佐国を与えられ、1603年に入封(にゅうほう)すると、左馬助は年貢上納を拒否滞納
し続けます。山内家家老であった「永原 一照(ながはら かつあき)」は再三に渡り左馬助に年貢を納めるよう説得しますが、
左馬助は
「凶作であるので納める米がございません。」
と周りの百姓達も扇動する始末でした。
一照は百姓たちから人質を取って年貢上納の命令を下しますが、百姓たちは左馬助怖さに結局年貢を納めませんでした。
一照が左馬助を本山土居にて詰問しますが、
「そもそも豊凶においては天が決めること、すなわち神の考えである。おろかな人智ではどうする事もできません。土佐山内家においては
我らに対しての慈悲も無く、刀馬の力にて貧しく悲しき者から召し取るおつもりなれど、天の定めたる米の量を増やす術などあるはずも無く、
上納いたしたくとも米がござらぬ。もし上納を迫るのであれば、まずは天におわす天照に対して戦を仕掛け、見事打ち負かした後、
豊作となりし本山の田畑から存分に年貢をお取りくださいませ。」
と言い逃れする始末です。
いよいよ武力をもって攻め寄せて来る事を予期した左馬助は、すぐさま、弟「吉之助(きちのすけ)」や百姓どもを徴収し、北山の滝山に籠りました。その数およそ100名。
一照は「井口 惣左衛門(いぐち そうえもん)」を物見に出したが、不穏な動きありとすぐさま報告します。
10名の配下を連れて滝山に向かった一照に、鉄砲で威嚇します。
翌日には配下を30名に増やし、討伐を開始します。
滝山は天然の要害であり、にらみ合いが続きます。一照は高知に伝令を出します。
報告を受けた山内家では評定を開き武力をもって一揆を鎮圧する事を許す藩命が下りました。

滝山へと続く道は一つしかなく、しかも狭く左右の山から標的にされてしまいます。一揆勢は鉄砲や投石による攻撃で、応戦します。
一照は針窪山から大筒を使って砲撃すると、驚いた百姓たちの戦意は喪失し、5日に及ぶ「滝山一揆」は集結します。
左馬助は集めた百姓たちを見捨ててすぐさま逃亡し、土佐国瓜生野より讃岐国へと逃れました。
その後の行方は分かっていません。
滝山周辺のほとんどの百姓たちは、左馬助と共に一揆に参加していたので、鎮圧後も刑罰を恐れて引き続き山に隠れていました。
「豊永 五郎衛門(とみなが ごろうえもん)」はこのままでは村々の田畑が荒廃する事を懸念し、
一照に一揆に加勢した百姓たちに対しての罪を不問に伏す事を嘆願し、何とか百姓たちは村に帰ることができました。

長宗我部右近大夫

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〇 【長宗我部 右近大夫】(ちょうそかべ うこんだいふ)

〇  1583~1615

右近大夫は土佐国長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)」の5男として生まれました。
母は側室でした。
1600年、関ケ原の戦いで兄「盛親(もりちか)」が土佐国を改易されてしまうと、肥後国の「加藤清正(かとう きよまさ)」に仕えました。
1615年には、大坂の陣が勃発し、盛親が豊臣家に与して徳川家に弓を引いた事から、盛親が斬首される際に切腹の命を受けてしまいました。
右近大夫は切腹の仕方を知らなかったので、家来であった「小宮崎久兵衛(こみやざき きゅうべえ)」が先に手本を見せて、右近大夫は「あいわかった」と笑いながら潔く切腹しました。享年32歳。

 

〇長宗我部右近大夫をかんがえる
母である「小少将(こしょうしょう)」は「細川真之(ほそかわ さねゆき)」の母親でもあり、右近大夫からすると真之は異母兄にあたりますが、年代の矛盾から別人との見方が強いです。

ある意味右近大夫は「とばっちり」ですよね。兄貴が勝手なことしてくれたおかげで切腹を言われるなんてこんな理不尽な話も無いかとおもいますが、これを潔く受け入れて実行するあたり、現代人と価値観がちがうんでしょうね・・・

黒川元春

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〇 【黒川 元春】(くろかわ もとはる)

〇 生没年不詳

元春は土佐国「長宗我部兼序(ちょうそかべかねつぐ)」の次男として生まれました。
「国親(くにちか)」の弟であり、「元親(もとちか)」の叔父にあたります。
若い時国親と不仲になり、伊予国へと移り住みました。
伊予周敷郡(しゅうふぐん)黒川にある黒川山城主「黒川山城守通矩(くろかわやましろのかみみちのり)」
と義兄弟となり、通矩を兄と慕うようになります。
その後通矩の力を借りて剣山城(つるぎやまじょう)を築きます。

※剣山城は現在の愛媛県西条市小松町にあります。

時期ははっきりとはしていませんが1530年ごろと言われています。
元春はこの頃に通矩の妹を娶って一門になります。そして姓を「黒川」にします。

〇元春をかんがえる
元春なんですが、出生が不明なので、一説では長宗我部とはまったく関係が無いという話もあります。
国親との間に何があったのか分かりませんが、土佐を出る必要があるという事は命を狙わられるくらいの確執があったのかもしれません。
黒川家は、河野家に仕えて勢力を持ちますが、秀吉の四国征伐時に「小早川隆景(こばやかわたかかげ)」に攻められて剣山城は落城してしまいました。

香西佳清

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〇 【香西佳清】(こうざい よしきよ)

〇 1553~1588

佳清は讃岐国「香西元載(こうざいもととし)」の子として生まれました。(別説あり)
元来は細川家に従っていましたが、三好家の讃岐侵攻により、三好家に従っていました。
1568年、備前国の本太城(もとぶとじょう)(岡山県倉敷市児島)を攻めましたが、村上水軍の前に惨敗し、元載が討ち死にしてしまいました。跡を継いだ佳清は1570年、野田、福島城の戦いにおいて天然痘を患い、失明しました。
失明後も当主として様々な戦に参陣します。
1574年、「三好長治(みよしながはる)」が出兵し、攻められますが、他の讃岐衆らの加勢を受けて退けた。
1576年には「香川之景(かがわゆきかげ)(信景)」と共に「織田信長(おだのぶなが)」に降伏しました。
1578年、妻と離縁をしたことで義父であった「羽床資載(はゆかすけとし)」が離反、家督相続をめぐって御家争いが勃発してしまいました。
この混乱の中、「長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)」が讃岐にて勢力を伸ばし、「香川親和(かがわちかかず)」を大将とする長宗我部軍が居城である藤尾城(ふじおじょう)(香川県高松市香西本町(宇佐八幡神社))に攻め寄せてきました。
これに対し、一旦は足止めに成功しましたが、落城寸前まで追い込まれてしまいますが、交流のあった香川信景の仲裁によって、元親に許されて降伏しました。
1585年、「羽柴秀吉(はしばひでよし)」の四国征伐が始まると、長宗我部の軍として奮闘しますが、敗北して下野しました。
その後は「宗可(そうか)」と号して「仙石久秀(せんごくひさひで)」らから慈悲を受け、1588年に死去しました。享年35歳でした。

 

〇香西佳清についてかんがえる
父親については、香西元載である説と、元載の父親である元成であるという説があります。戦国時代における資料は結構あいまいな情報や間違いもあるので、確かなことを追求するのは難しい所がありますね。
失明してしまったことから「盲目の大将」とも呼ばれています。
伊達政宗(だてまさむね)」は片目だったので、まだ戦場でも活躍できたと思いますが、全盲ではつらかったでしょうね・・・
「目」の役目をする側近がいたのではと推測されます。