忠兵衛ぐでんぐでん日記

高知の歴史好きが作ったプチ武将列伝&ざっくばらんな話集です。

真西堂如渕

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〇 【如渕】(じょえん)

〇 生年不詳~1588
如渕(如淵)は「南村梅軒(みなみむらばいけん)」から土佐で南学を学び、京の東福寺妙心寺にて修行をした後土佐に戻ります。
土佐では「宗安寺(そうあんじ)」(高知県高知市)の住職となりました。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)」の弟「吉良親貞(きらちかさだ)」の庶子になります。
吸江庵の忍性らと共に岡豊城に招かれ、南学(儒学朱子学)の講義を行います。
家督相続問題では、兄である「吉良親実(きらちかざね)」らと共に元親に意見しますが、退けられ殺害されてしまいました。

〇如渕をかんがえる

「真西堂如渕(しんせいどうじょえん)」という名前でも有名です。
親実らと共に処刑されて「七人みさき(八人みさき?)」になったと言われますが、別の説もあるようです。
如渕は幡多中村にある大平寺まで落ち延び、「雲居(うんご)」を弟子にします。
その後二人は上京(京に上る)して東福寺に迎えられました。
関ヶ原の戦い後には大徳寺に入り、如渕は「賢谷宗良(けんこくそうりょう)」と名乗り、1617年に大徳寺
159世にまで上りました。
大徳寺の資料には
「百五十九世賢谷~土州之人俗姓吉良~」とあります。

石谷頼辰

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〇 【石谷頼辰】(いしがい よりとき)

〇 生年不詳~1586

頼辰は美濃国「斎藤利賢(さいとう としたか)」の長男として生まれました。
母の再婚相手であった「石谷光政(いしがい みつまさ)」の養子となって、娘を嫁にします。
その後は将軍「足利義輝(あしかが よしてる)」に仕えます。
その後義輝が暗殺され、15代将軍「足利義昭(あしかが よしあき)」が「織田信長(おだ のぶなが)」によって追放されると、「明智光秀(あけち みつひで)」に仕えます。
1583年、山﨑の戦い(天王山)にて主君光秀が敗北すると、頼辰は土佐へと落ち延びました。
その後は長宗我部家に仕えます。これまでの経験を買われて重用されます。
娘は「長宗我部信親(ちょうそかべ のぶちか)」に嫁ぎました。
1586年、戸次川の戦いで、娘婿である信親と共に討ち死にしてしまいました。

石谷頼辰をかんがえる
頼辰と元親との関係は、元親の妻が頼辰の義理の妹になります。
ちなみに弟は明智光秀の重臣「斎藤利三(さいとう としみつ)」、妹は「蜷川道標(にながわ どうひょう)」の妻になります。
この縁もあり、長宗我部家と斎藤家、ひいては明智家とも交流が盛んでありました。
元親としても、本能寺の後で明智光秀が天下を取ってくれていたら申し分なかったでしょうね・・・
溺愛していた嫡男信親の妻に頼辰の娘を選ぶあたりも、頼辰を最上級に重く迎え入れていた証拠でしょうね。

蜷川道標

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〇 【蜷川道標】(にながわ どうひょう)

〇 1533~1610
道標はもともと足利将軍家に仕えていた家柄で、「蜷川親世(にながわちかよ)」の長男として生まれました。室町幕府13代将軍であった「足利義輝(あしかがよしてる)」に仕えていましたが、1565年に、義輝が暗殺されると所領であった丹波国を失うことになりました。
その後親戚である「長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)」の妻を頼り、元親に仕えました。
道標は宮中の礼儀作法等に詳しく、さらに歌人としてもかなりの腕前でしたので、元親から重用されます。
元親が1597年に制定した「長宗我部元親百箇条」の製作にも携わった人物です。
1600年、関ケ原の戦いで長宗我部家が劣勢となった時も、一揆鎮圧や財務的な処理で手腕を発揮しました。
1602年には「徳川家康(とくがわいえやす)」に取り立てられて、御伽衆となりました。
1610年に、京都で死去します。享年77歳でした。

 

〇蜷川道標をかんがえる
「御伽衆(おとぎしゅう)」とは、主君の相談役(政治、軍事、芸能等)として仕え、世間話等の相手も勤めていた職です。「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」は読み書きが苦手だったので、約800人もの御伽衆を揃えていたと言われています。よほどお勉強が・・・
長宗我部家における道標は非常に貴重な存在であったと言えます。土佐という田舎でありながら宮中や京での作法を熟練していた人物が居てくれることで髪形の大名とも対等に外交が出来たことでしょう。
当時の交渉は相手に舐められたら終わりなので、武力はもちろん、こういった作法にも相手にバカにされない対応が必要だったのでしょうね。これは現在にも通ずる所があります。

中内惣右衛門

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〇【中内 惣右衛門】(なかうち そうえもん)

〇生年不詳~1624年

惣右衛門は土佐国「長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)」の家臣であり、古い記録では
1562年に本山家吉良城(高知県高知市春野町大谷)別名弘岡城攻めに名前が出てきます。
1600年関ケ原の戦いで「盛親(もりちか)」と共に参陣するが、敗れて大坂まで敗走します。
その際、500の兵を率いて盛親を守ります。結局大坂についた頃には7名になってしまいます。
討死したというよりか、逃げ出した兵が多かったみたいです。

長宗我部家の改易後は士官先を転々としますが、1615年大坂の陣では再び盛親に従って戦います。
結局盛親は敗れて逃げ出します。惣右衛門も共に敗走しますが、山城国八幡にて盛親と共に捕縛されてしまいました。

盛親は処刑されましたが、惣右衛門は盛親に対しての忠義心を認められ、兄が士官していた「蜂須賀家(はちすかけ)」
より、士官の誘いを受けますが丁重に断ります。
その後は土佐に戻って剃髪(ていはつ)します。
※剃髪とは仏門に入る際に、髪を剃る事をいいます。ようは坊主になったってことですね。

名を「惣入(そうにゅう)」と号して盛親の菩提(ぼだい)を弔いました。1624年静かに最期を迎えました。
※菩提とは死後の冥福を表します。

〇中内惣右衛門をかんがえる
惣右衛門というのは通称でして、「中内三安(なかうちみつやす)」と言います。
中内も(なかのうち)とも伝わっていますので当時は結構あいまいに呼んでいたと思われます。
山内一豊も(やまうち)(やまのうち)の呼び方がありますよね。

大坂夏の陣の後潜伏していた所を捕縛されたいきさつが伝わっています。
「長坂三郎左衛門(ながさかさぶろうざえもん)」は、豊臣軍の落ち武者を探していました。
八幡の茶屋で休憩をした際、店主に落ち武者らしき者がいないかと尋ねると店主は、
「最近の事ですが、毎晩食べ物を買っていく浪人風の輩がいますので、跡をつけてみると
近くの葦原(あしばら)に隠れるように入っていきました。」と答えました。
三郎左衛門は店主に案内をさせ、葦原を調べると、座り込んでいた盛親と惣右衛門を発見したとの事です。
長坂三郎左衛門は奇しくも「蜂須賀家」の家臣でした。

殉死せずに寿命尽きるまで盛親の菩提を弔った惣右衛門の心中はどんなに無念だったことでしょうか・・・

土居宗珊

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〇 【土居宗珊】(どい そうさん)

〇 1512~1572
宗珊は土佐一条家の家臣です。
非常に優秀な武将として名高く、他の家臣からの信頼も厚かった宗珊ですが、本人の一条家に対する忠誠心も事実上のナンバーワンです。
しかし、非情な事に君主である一条兼定は基本的に自由奔放で、和歌や蹴鞠、狩りや酒宴などの娯楽が大好きで、あまり政治を好んで
しませんでした。
宗珊はことある度に兼定に対して諫言(かんげん)しますが、五月蠅がって一向に心を入れ替えません。
それどころか、兼定の怒りを買ってしまう結果となり、とうとう手討ちにされてしまいました。

○土居宗珊をかんがえる
長曾我部元親の勢力が大きくなり、安芸国虎を倒した次のターゲットとして領地を脅かされる中、当主である兼定は一向に脅威と考えず
遊び惚けていました。見かねた宗珊は一条家の為にあえて耳の痛い話を再三宗珊に対して行いました。
伊予国大森城主であった、「土居清良(どいせいりょう)」の姉婿であったと言う説が一般的です。ちなみに名前は「土居近江守家忠(どいおうみのかみいえただ)」。
手討ちにされた原因としては、いくつかあり。
諫言に対して兼定の怒りを買った結果という説。これが一般的です。
元親の計略により長宗我部と内通しているという噂からの処置(これは本当に内通していたかも・・・)
一条家の内紛による混乱から亡くなった(これは殺害された説)等があります。
どちらにしても大黒柱であった宗珊を失ったダメージは大きく、その後は一気に一条家は駆逐されてしまいます。

土居清良

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〇 【土居清良】(どい きよよし)

〇 1546~1629

清良は伊予国西園寺家家臣、「土居清晴(どい きよはる)」の三男として生まれました。
伊予宇和郡にて生まれましたが、1560年には伊予への大友家侵攻で、父等が戦死すると一家は没落してしまいます。
清良は15歳で土佐一条家の被官となりました。
一条家の土居宗珊の保護を受けました。
※被官・・・広い意味での従者(家来)の事


一条家でその力が認められると、伊予国への帰還が認められ、伊予大森城主として三間3村の領主となりました。
その後一条家から離れた清良は西園寺家に属します。大友家、一条家、長宗我部家の相次ぐ侵入を防ぎました。
清良は配下全員に鉄砲を装備させたりと、当時の四国においては異例の戦術を取っていました。
1581年には長宗我部の大軍を岡本城にて迎え撃ち、長宗我部家老の「久武親信(ひさたけちかのぶ)」を討ち取りました。

1587年、秀吉の四国征伐に際し、「小早川隆景(こばやかわたかかげ)」から所領を安堵されましたが、小早川家の九州転封に伴って
下野します。その後の領主となった藤堂家よりも再三士官の誘いがありましたが、断って帰農しました。
そして、1629年に死去しました。享年83歳でした。

土居清良をかんがえる
清良は画期的な戦略、知略を用いて領内の守備防衛に勤めました。
当時鉄砲は非常に高価な武器だったので、一部の大名を除いては殆ど持っていませんでした。
1500年代では、主大名の鉄砲所有率は大体10~20%くらいだと思ってください。
その中で、土居清良の舞台は鉄砲所有率100%だったとの事ですから、ダントツのトップですね。
清良は甲賀より鉄砲鍛冶師を招いて、兵士たちに銃を配備させています。
鉄砲は殺傷能力だけでなく、その音だけでも、敵兵や軍馬を混乱させたと言われています。
馬は臆病なので、鉄砲の音だけで、暴れだします。
さらに、農地改革として、農学者である「松浦宗案(まつうらそうあん)」を招いて農業の研究を行っています。

清良配下の兵士は石高から考えても500名程度だったと推測されますが、その分経済的にも乏しいはずなので、
500挺もの鉄砲を揃える事自体通常ならばありえないです。

小早川隆景からは
「清良を五か国の大将にすれば天下統一ができる」と賞賛したと言われています。

個人的にはなぜ藤堂高虎の誘いを頑なに拒んだのかですが、彼は立身出世よりも、ただ、故郷を守りたいと言う
一心からこれまで外敵とと戦ったのではないか、
そして、天下が統一されて故郷が脅かされる不安が無くなったと判断したのではないでしょうか?

元々農業の素晴らしさを研究していたので、性格的に武士よりも農家(百姓)を選んだだけかもしれませんね。
自由奔放に晩年を過ごした彼は、きっと幸せだったのではないかと思います。

森孝頼

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〇 【森孝頼】(もり たかより)

〇 生没年不詳

孝頼はかつて土佐郡森郷や潮江村の地域を治めていた豪族「森頼実(もりよしざね)」の嫡男として生まれました。
1544年、父が本山氏「本山宗茂(もとやまむねしげ)」によって滅ぼされると、まだ幼少であった孝頼は岡豊に落ち延びて「長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)」の庇護を受けました。
その後は長宗我部氏の下で成長し、重臣である「吉田重俊(よしだしげとし)」の娘を娶りました。
1560年、長浜の戦いにおいて長宗我部氏は宿敵本山氏を撃破します。
長浜より岡豊へと帰参する最中に、潮江城(高知市潮江筆山)を攻めます。
しかし、すでに潮江城に本山軍は居なかったので、無傷で潮江城を手に入れます。
孝頼はその後も本山氏を攻める際の主力として活躍します。
その温床として、孝頼は旧領である森郷を貰い受け、潮江城主となりました。
その後は明確な資料がありませんが、元親の四国統一に貢献した働きをしたと考えられます。

〇森孝頼をかんがえる
孝頼は本山攻めにおいて大いに働きました。
旧領が本山氏の本拠地に隣接していた為、森氏の旧臣も沢山残っていました。その者らと内応して、
本山氏を混乱させます。
また、潮江天満宮の改修も行ったとされています。
父の仇である本山氏を長宗我部の力を借りて果たした形になりました。無事旧領を手に入れることも出来た事はよかったと思います。
同じく長宗我部家臣(一門衆)の本山親茂との仲はどうだったのでしょうかね?
まぁあまり顔を合わせることは無かったかもしれませんし、共にお爺ちゃんやお父さんの代での遺恨なので、水に流して酒でも酌み交わしたのかもしれませんね^^